~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
彼 女 の 死 (七)
彼は祖師ヶ谷大蔵から新宿行きの電車に乗った。このまままっすぐに大塚の監察医務院に向かうつもりだった。
電車が駅を離れると、窓のむこうに雑木林の風景が流れて来る。その間に畑があった。
今西は雑木林を眺めているうちに、ふと、自分が、以前にこの辺に来たことを思い出した。
それも、つい一ヵ月前のことだ。宮田邦郎の先だ現場がここからは遠くないのである。
今西はそれに気づくと、手帳を出し、急いで繰った。
宮田邦郎の死体のあった場所は、世田谷区粕谷町××番地である。
すると、いま自分が行った祖師ヶ谷の家とは、わずかな距離しかない。
風景が似ているのも当然だった。
「やあ、また見えましたね」
監察医務院の医者は、今西栄太郎の顔を見て、笑いながら言った。
宮田邦郎のことで、先月のはじめに来たのを憶えていてのことである。
「今度は何ですか?」
医者はにやにやした。
「先生、殺しではないんですが、昨日の朝、行政解剖でこちらに回って来た、三浦恵美子という仏さまのことで来ました」
「ああ、あれ?」
医者は意外そうな顔をした。
「あれが何かおかしいのですか?」
「いいえ、別に事件というのではありません。その死体のことで少し伺いたいのですが、解剖なさった先生はどなたですか?」
「ぼくですよ」
と、当の医者が目を笑わせた。
「それはどうも、で、解剖なさったご意見はいかがでしたか?」
「あれは、やっぱり出血死ですな。妊娠ですよ」
医者は気軽に話した。
この気軽に話すか、重たげに説明するかの態度で、だいたい、事件の種類が推測されるのである。
「ははあ、すると、やはり病死ですか?」
「病死ですね。病死といいっても妊娠四ヶ月の胎児をお腹に持っていて、転んだんですから、その圧迫により胎児の生命が断たれたから、流産がはじまったのです。いわば死産ですよ」
「それに間違いはないでしょうね「?」
「まあ、ぼくの診るところではそうだけれでど、名刑事は何か不審があるのですか?」
「お話ししないとわかりませんが、いろいろと妙なことがあるんです」
ここで、今西は簡単に恵美子のことを話した。家を越した直後にその事故が起こったこと、医者に電話を掛けたのは男の声だったのに、それが恵美子の死後も姿を見せないことなど、詳しく話した。
「それは、おかしいですな」
医者は初めて顔から笑いを消して、少し真剣な目つきになった。
「確かに、男の声が電話で医者を呼んだんですね」
「ええ、そうです。それなのに、死んでもちっとも姿を見せません」
「ううん」
医者は考えていたが、」
「そりゃあ、やっぱり何ですな、その女性と特別な関係にあった男でしょうね。つまり、その男が子供の父親かも知れませんよ。だが、よくあることで、女が死ぬと自分の外聞を考え、ついに、倒れた女のところには戻って来なかったんでしょうね」
「私も同じ考えです。先生、その死因は死産といいますが、解剖でもそのとおりなんですね」
今西は確かめた。
「それは間違いありません。腹部に内出血がありましたが、もちろん、これは、転倒した時に受けた打撲傷です。そうですね、あれはほかに外力を加えられたような形跡はありません」
「つまり、殺しではないわけですね?」
「殺しではありません。急激な死産によって起こった、出血過多による死亡です」
今西は質問した。
2025/05/28
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