「今西さん、そろそろ切りあげましょうか?」
吉村が先に言った。もう銚子も四五本あけていた。
「そうだね、ちょうどいい気分になった。出ようか?」
しかし、今西には、関川の批評がまだ心にひっかかっている。
「おい、勘定」
今西が言うと、吉村があわてて、
「いや、今日はぼくが払いますよ。いつも、今西さんにばかり馳走になっていますから」
と、ポケットに手を入れた。
「こんなことは、年寄りに出させるものだよ」
今西はとめた。
おかみおさんは、ぶかっこうな大きな算盤をひき寄せ、勘定の計算をいている。
今西、それを見て自分のコートのポケットに突っ込んである「亀嵩算盤」を思い出した。
「吉村君、いいものを見せてあげよう」
「はあ、何ですか?」
今西は横に置いたコートをたぐり寄せた。
「これだよ」
ポケットから箱入りの算盤を出した。
「ほう、亀嵩算盤ですね」
吉村がレッテルを読んだ。
「全部で七百五十円です。毎度ありがとうございます」
おかみさんが勘定を告げた。
「おい、おかみさん、これを見なさい」
今西は、吉村が手に持っている算盤に、顎をしゃくった。
黒い艶のある小さな玉の一つ一つが、電灯の光を溜めている。
吉村は気持よさそうに指先で玉を弾いていた。
「なかなか、すべりがいいですね」
「算盤としては、日本一だそうだ。地元の業者の宣伝文句なんだがね。しかし、この実物を見ると、まんざら、誇大でもなさそいうだな」
「どこで、できますの?」
おかみさんが覗き込んだ。
「出雲の、つまり、島根県の奥の方だ。すごい山の中でね」
「どれ、ちょっと、わたしにも見せてください」
おかみさんはそれを手に取って、吉村と同じように、ためすように玉を弾いていたが、
「すてきな算盤だわね」
と、今西の方を向いて言った。
「今年の夏、この算盤の生産地に行ったことがある。その時、向うに知合いができて、今度、「これを送ってkぅれたのだ」
と、今西は説明した。
「あら、そうですか」
「へえ、最近、送ってきたのですか?」
吉村が横から今西の顔をのぞいて、すぐ言った。
「そうなんだ。今日、着いてね」
「先方では、また、何を思い出したんでしょう?」
「いや、例のぼくが会った桐原とう老人がね、息子の工場で造ったものだ、と言って贈呈してくれたんだ」
「ああ、いつか、うかがいましたね」
吉村はうなずい。
「やはり田舎の人は律義ですね」
「そうだ、ぼくもちょっと意外だったよ。この夏、一度きりしか行ったことがない先だからね」
今西は勘定を払った。
「毎度あありがとうございます」
おかみさんが頭を下げた。
今西は、算盤をコートのポケットにまた突っ込んで、吉村と一緒におでん屋を出た。
「おもしろいものだね」
今西は吉村と肩を並べて歩いていた。
「亀嵩のことなどすっかり忘れていたところに、こんなものを送ってもらった」
「あのときは、今西さんもだいぶん張り切って出雲に行かれたんですがね」
「そうななんだ。今度こそは、と思って気負い込んで行ったがね。暑い盛りだった。しかし、もう、二度とあの山の中に行くことはあるまい。こういう仕事をそいていればこそ、思いもよらない土地に行くんだね」
ガードの横を歩いた。
「そうだ、桐原という老人から、自作の俳句を手紙に書いてきたよ・・・。算盤の掌にひえびえと秋の村」
「なるほどね。句のうまい下手は、ぼくにはわかりませんが、実感だけは出ていますね。俳句といえば、今西さんのも、ここ等分、見せてもらっていませんね」
「忙しいからね」
吉村の言うとおりだった。このとこ、句帳も空白のままになっている。
それほど事件に追われ走りまわっているというわけでもないのだが、心のゆとりのないことは、やはりこういうところに現れる。
「今晩、君に会ってよかったよ」
今西は洩らした。
「どうしてですか? あまりお話しも聞けなかっようですが」
「いや、君と会っただけでなんとなく気が腫れた」
「今西さんは、例の一件をこつこつとやっているんでしょう。そして、今、何か小さな壁みたいなものに突き当たっているんじゃないですか?」
「まあ、そういったところだな」
今西は顔を手でつるりとなでた。
「いろいろ話したいことはあ。しかし、現、ぼくの頭は、正直、混乱してるんだ」
「わかります」
吉村刑事は微笑した。
「しかし、今西さんのことですから、すぐにそれが一本になると思いますよ。ぼくはそれまで楽しみに待っていますよ」 |