~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
糸 (九)
彼は七曜表を覗き込んだ。すると、次の日曜につづいて月曜が祝日になっている。
「おれ、今度の土曜日の晩から、北陸の方へ行って来るよ」
これが今西が帰宅して妻の芳子に言った言葉だった。
「またですか?」
妻は、たったこの間伊勢から帰ったばかりなのに、というような顔をした。
「遊びじゃないんだ」
今西は、腹を立てたような声を出した。
「おれも、そうそうは休暇が取れないのでな。今度の二日の休みが絶好の機会だ」
「出張にはならないんですか?」
「ちょっと、言いにくいんだ。モノになるかどうかわからないからね。石川県まで行って来るんだが、旅費はあるかい?」
「それくらいの用意はありますわ」
「ありがたい。ぜひ、出してくれ」
「石川県のどこですか?」
「山中という温泉の近所だ」
「まあ、いいと所へいらっしゃること。帰りにはおみやげを買ってきてくださいよ」
今西は、まだ一度も妻を連れて温泉に行ったことがない。女房の言い方はちょっと今西の胸をえぐった。
「ああ、いいよ。しかし、せっかく貯めたのに悪いな」
「いいえ、仕方がありませんわ、仕事ですもの」
今西は、今度こそ何かを摑んで帰りたかった。思えばこの間の出張をいれていろいろ旅をしたが、カラまわりばかりだった。
彼は、あくる日、電話で吉村を呼んだ。
「ぼくは、明日の土曜日の晩から、石川県のヤマナカに行くよ」
「山中ですって?」
吉村が耳元で大きな声を出した。
「山中、山代、粟津の湯でも・・・の、あの山中ですか? 今度は、どういう用事ですか?」
吉村は電話で聞いた。
{やっぱり、例の一件さ」
今西は、ちょっと照れくさそうに答えた。
「へえ、ずいぶん、ほうぼうにひっかかりがあるんですね?」
「まあね」
「今西さん、ぼくで出来ることがあったら、手伝わせてください」
吉村は熱心な声になった。
もともと、今度の事件は吉村の管内に起こったことだ。現に、捜査本部が解散されたあとでも、その所轄署では任意捜査ということになっている。
任意捜査だから、専任の捜査員を置くことはなかったが、吉村は、最初からこの事件に最も熱心な刑事だった。
「そうだね」
今西は考えたが、
「明日の晩、ぼくは東京駅を出発する。時間は夜の九時四十分だ」
「二十一時四十分ですね。わかりました。お見送りがてら行きますよ」
土曜日の晩、今西はスーツケースを持って、東京駅のホームに立っていた。見送りの人の群れの間から、吉村が近づいて来た。
「やあ、来てくれたね」
今西は笑った。
「ご苦労さまです」
吉村は頭を下げて、
「今度は、出張じゃないのですか?」
「出張とは、自分としては言えないからね。幸い、連休だろう。これから、それを利用して遊んでくるといった格好になった。まあ、女房のやつがヘソクリを出したんで助かったよ。少々、機嫌が悪いがね」
「いや、今西さんの奥さんは、よくできていますよ」
「おい、おい¥。そんなことはどっちでもいい。君に頼みたいことがある」
と、今西は左右を見まわした。
「ちょっと耳をかしてくれ」
今西は、吉村を傍にひきつけてささやいた。
吉村は目を大きく開いていた。
「わかりました」
話しがすむと、吉村は今西の顔を見て、大きくうなずいた。
「お帰りまでに、必ず、それを仕上げておきますお」
「頼むよ」
あと発車に五分というときに、妻の芳子が人の間から近づいて来た。
「あなた、汽車の中でこれを召し上がってください」
彼女は風呂敷に包んだものを差し出した。
「何だい?」
「あけて見るまでのたのしみですわ」
「悪いな。いろいろ、金をつかわせて」
今西は、思わず他人行儀な礼を言った。
列車がホームを離れて小さくなったとき、吉村は横に並んでいる芳子に言った。
「奥さんも大変ですな。いや、今西さんのような人も、めったにいませんがね」
「仕事が好きで仕方がないんでしょう」
芳子は答えた。
2025/06/24
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