奥の暗い所から、人が現れた。
今西は目を移した、五十五六歳ぐらいの女だった。髪が薄く、前の方が禿げている。顔もむくんだように青白くふくれていた。
「山下庄治さんのお宅ですね?」
今西はその女に頭を下げた。
「は、そうですが」
女はどんよりした目つきで今西を見ている。片目の子の母親らしかった。今西はこの女が庄治の妻、お妙だと直感した。うなずいた表情が鈍い。
「わたしは、本浦千代吉さんの知合いですが」
今西はそう言いながら、彼女の顔をうかがった。が、眠たげな目つきは、少しも瞳を動かさなかった。
「わたしは、岡山県で千代吉さんと、ちょっと知合いになりまして。それで、こちらが千代吉さんの配偶の実家だと聞いたので、この近所まで来たついでにうかがったのですよ」
「そうですか」
お妙は、少し首をうなずかせた。
「まあ、こちらにおすわりください」
それが、お妙という女の、挨拶らしい言葉の最初だった。
男の子は、まだ白い片目をむいて見ている。
「これ、あっちに行け」
お妙は男の子に手を振った。すると、子供は黙って、のろのろと裏の方へ歩いて去った。
「どうぞ」
裏の方を見送っていた今西に、お妙はすすめた。暗い框に、うすい座布団が出ている。
「ありがとう」
今西栄太郎はすわった。
「どうぞおかまいなく」
彼は茶の支度をいしている彼女に言った。
お妙は、今西に盆に乗せた茶碗をすすめた。うす汚かったが、今西は快く一口に飲んだ。
「ご主人の庄治さんは、お留守だそうですね?」
彼は言った。
「はあ、大阪の方へ行っております」
お妙は、今西と向かいあってすわった。
「わたしは、妙な因縁から、あなたの妹婿さんの千代吉さんと知合いになりましたが、いい方でしたな」
「いろいろと、お世話になったことと思います」
お妙は頭を下げた。
お妙は、どうやら、今西を岡山の慈光園の職員課か、医員かと思っているらしかたた。つまり、千代吉と知り合ったというのは、その場所だと考えているようだった。
「千代吉さんからは、山中温泉のことはいろいろ聞きましてね。わたしも、一度、お訪ねしたいと思っていた矢先、ちょうどここに来ましたので、つい、お立寄りしたようなしだいです」
「はあ、そうですか」
「時にうかがいますが、妹さんのマサさんは、昭和十年に亡くなったそうですが、男のお子さんはどうなさいましたか? つまり、千代吉さんと、なたの妹さんとの間に生まれた子どもさんです」
「秀夫ですか?」
お妙は問い返した。
「ああそうそう、秀夫さんといいましたね。千代吉さんからよく聞きましたよ。何だそうですね。秀夫さんは、千代吉さんが慈光園に入る前に、生き別れになっているそうですが」
「そうです・・・千代吉は、あなたに何か言いましたか?」
「いいえ、ただ、秀夫はその後、どうしているだろうかとしじゅう言っていましたが」
「そうですね。なにしろ、妹は秀夫を生んで四年後に死にましたのでね。死ぬまでとうとう、あの子の成長を見なかったはずですよ」
「それはどういう意味ですか。妹さんは、千代吉さんと別れてこちらに、つまり実家に帰っていたんじゃないのですか?」
「何もかもご存じのようですから、隠さず申しますと、千代吉がああいう病気になってから、すぐに妹は別れました。まあ、妹のやり方も不実なところがありますが、病気が病気だから仕方がないでしょう。ところが、千代吉は子煩悩で、秀夫を連れて旅に出ていったのです」
「それは、何年ごろですか?」
「確か、昭和九年ごろではないかと思います」
「千代吉さんが出ていかれたのは、どこか当てがあったのですか?」
「はい、当てというほどではありませんが、ああいう病気によく効く寺まわりをはじめたのです」
「それでは、全国をまわられたわけですね。つまり、お遍路みたいなことですね?」
「そうだと思います」
「そのとき、子供さんを連れて行かれたわけですが、。いま、その子供さんの行先はわかりませんか?」
「千代吉は、どこを回ったかわかりません。なにしろ、実の母親の妹にも音信不通でしたから」
お妙は少しうつむいて答えた。
「妹は、千代吉と別れると、大阪の方で料理屋の女中になっていました。が、それも一年ぐらいで、妹も、まもなく病気になって、向うで亡くなりました」
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