~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
無 声 (二)
「しかし、それだけでも相当な裏づけですよ」
吉村は、今西の話をもう一度頭の中で整理しているようだった。
「君、食べてくれよ。肉が煮つまるからね」
「ええ、いただきます」
「この辺の店から買ったのだから、たいした肉ではないが・・・。ところで、吉村君、君の方はどうだった?」
「今西さんが行かれたあと、さっそく、当たってみましたよ。なだ一ン日ですから、十分なことは聞きませんでしたが。あの近所でちょっとおもしろい聞き込みがありました」
「ほう、どんなことだね」
今度は、今西が目を輝かせた。
「あまり近所づきあいがないので、よくわからないんですが、評判はあまり悪くないようです」
「なるほど」
あの辺は、わりと大きな家が多いんです。ですから、もとから近所づきあいもあまりないそうですが、ことにあの人は芸術家ですから、近所でもつきあいにくいんでしょうね」
「そういう場所だね。で、おもしろい聞き込みというのは?」
「実はこうなんです」
吉村が盃をほした。
「あの辺は、土地がら唖売りが多いんだそうです。話というのは、その押し売りのことですが・・・」
「うむ」
「その押し売りが、あの家に入ったそうですよ。するとものの三十分もねばっていたそうですが、出て来たときは、蒼い顔をしていたそうです」
「押し売りが蒼い顔をしていたのか。はてな? ひどく怒られたのかな」
「いや、そうじゃないんです。家の中に入って、玄関で品物をひらき、例の凄文句を並べました。対応したのは本人ですがね。するとそのいうち、押し売りは何を考えたのか、さっさと自分の方から品物を包んで、黙って家から出て行ったそうですよ。これは手伝いの女中さんの話が、近所に伝わったのです」
「ほう」
「何でも、凄文句を並べていた奴が、黙って引き退ったというので、変な話だということになったので」
「買ってくれる見込みがないと思ったのかな」
「いや、そうじゃないんです。連中は、たとえ百円のものでも買わせなければ、簡単に引きさがりませんよ」
「じゃあ、どうしたのだ」
吉村の押し売りの話はつづいた ──。
「なんだかよくわかりまえんがね。とにかく、押し売りが黙って出て来たことは事実です。だが、それだけではないんですよ。そのあと二三日して、べつな押し売りがあまtあの家に入ったそうです。ところが、おもしろいことに、その押し売りも同じように、凄文句の途中、あわてたように品物をたたんで出て来たそうですよ」
「へえ、どういうわけかい?」
「それがわからないんです。これは少しおもしろい話だと思いましてね、今西さんに会ったら話そうと思ったことです」
今西は黙って鍋の中に水を差した。
芳子が銚子の代わりを運んで来た。
「ご馳走になってます」
吉村が頭を下げた。
「いいえ、何もございませんが」
芳子が去ると、今西は盃から頭を上げた。
「君。その押し売りの話は、たしかに、おもしろいね。いつごろのことかね?」
「十日ばかり前だそうですよ」
「二人の押し売りが続いてそういう出方をしたのだね?」
「そうです」
「君。その押し売りを、なんとか探し出せないだろうか?」
「押し売りですか」
吉村は、口にくわえた牛肉を箸で切った。
「そりゃあ、調べられないことはないでしょうが」
「何とか、その二人を探し出したいものだね。ぜひ、会って話を聞きたい」
「何か参考になることがありますか?」
「その話を聞くのだ。詳しくね」
「今西さんがぜひというなら、こちらで手をまわしてもいいです。なに、連中は一人ひとりが歩いているわけでなく、あれで組織がありますからね。その辺に当たれば、何とか割れそうです」
「頼む。急いでほしい」
「じゃ、明日、さっそくにでもおりかかりましょう。その方面のことをやっている係りを知っていますから」
今西は酒を休んで煙草を吸いはじめた。が、一人で何かを考えているふうだった。
「あ、それから、もう一つ頼まれましたね。例のフィルムのことです」
「ああ、あれ?」
「目下、探している最中だそうです。全国にまわしたものは、ほとんど回収していますが、なだどこかに残っているかも知れないということでした。あと二三日すれば、はっきり返事が出来ると言っていました」
「そう。ありがとう」
「しかし、なんですね。ずいぶん、長くかかりましたが、どうやら、この事件も、少しずつ追込みにかかったような感じですね」
「そう思うかい?」
「思います。そりゃまだ何もはっきりしたかたちは出ていませんが、カンとしてはそうですね。何かこう、解決の前の気分といった心持がします」
捜査本部を置いて、多くの刑事たちが八方に散る捜査ではなかった。本部が解散されると、ほとんど事件捜査は打ち切られたといっていい。刑事たちも、ほかの事件につぎつぎと追われる。そのなかから暇を見受けては、こつこつと努力する任意捜査は、孤独で、苦労なものだった。
2025/07/02
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