~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
無 声 (九)
表に出ると暗くなっていた。
電車の灯も自動車のヘッドライトも、眩しい光りになっている。
今西が電車通りに沿って歩くと、向うから来る五六人の人影に出会った。
「よう」
と、向うで声をかけた。
警備課の連中だった。今西の知った顔である。
「ご苦労さん」
と、今西は言った。
「毎日、大変だな」
「もう、あと三日ですよ」
と、先方は笑っていた。
目下、政変があった。内閣が総辞職し、新内閣が成立しつつある。警備課の連中は首相官邸の警戒に詰めているのだった。
今西は、翌朝、寝床で新聞を読んだ。
第一面に、新内閣の顔ぶれが出ている。前から新聞で取沙汰されていたが、昨夜の深夜に顔ぶれが確定したのだった。
今西は、大きな活字で並んでいる名前を、拾い読みした。
外務大臣 三井 伍朗 (山形県選出・当選五階64歳)
大蔵大臣 諸岡 秀雄 (千葉県選出・当選三回68裁)
通産大臣 保田  武 (大阪府選出・当選四回54歳)
農林大臣 田所 重喜 (福島県選出・当選六回61歳)
厚生大臣 堀田 光雄 (島根県選出・当選五回48歳)
文部大臣 浜田 和夫 (愛媛県選出・当選四回52歳)

今西は、この大臣名簿の中から、田所重喜の名前を見つめた。
この人は、前にも大臣をつとめたことのある保守党の有力者で、温厚で知られている人物だが、こんども大臣になった。
田所重喜は、別な意味でジャーナリズムにも知られている。その娘が新進彫刻家なので、よく親子二人の写真が雑誌などに並ぶ。
しかし、今西には別な意味で、この新大臣に興味があった。
大臣の名前の下には、選挙区がついている。
田所重喜が福島県だったとは、はじめて知った。この人は福島県だったのか。そう思っ、活字面をしげしげと見入っていた。
「あなた」
襖越しに女房の声が聞こえた。
「そろそろ、お起きにならないと、時間ですよ」
今西は、新聞を捨てた。
新内閣が出来ようが、反対党が天下を取ろうが、今西のような下っぱの公務員には影響はない。
今西は、ごそごそと起きて、顔を洗った。
歯を磨いていると、味噌汁の匂いが漂ってくる、ネギの匂いも混じっていた。
座敷に上って、食卓の前についた。
女房も一緒に茶碗を口に持っていきながら、何かと話していたが今西は返事もしない。むっとして聞いている。
いや、聞いているのか、聞いていないのか、黙々と食べているだけだった。
外務大臣三井伍朗か・・・農林大臣田所重喜か・・・今西は、リズムのように口の中でつぶやく。
── 田所重喜は福島県だったのか。
彼は味噌汁の椀を置いて、手を湯呑に変えた。番茶の匂いが鼻に来る。
── 福島県・・・。待てよ。
今西は、首を傾ける。
── どこかで、この県には縁故があるぞ。
「首を寝違えたんですか?」
首をしきりと傾けているので、女房が真向いから聞いた。今西は、黙っている。
── あっ、そうだ。
今西は湯呑を置いた。
── 伊勢の映画館の劇場主が、たしか福島県出身だったではないか。あれはニ本松市近くの××村の生まれだった。

2025/07/07
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