~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
航 跡 (七)
今西はもとの部屋に戻った。浮かぬ顔をして茶を飲んだ。
── 成瀬リエ子は、どこで犯人と連絡をとっていたのか。
成瀬リエ子は前衛劇団の事務員だった。劇団は青山の方にあった。だから、彼女はどこかの下宿か、アパートから通勤していたのだ。
ところが、彼女の自殺後、今西が劇団の事務所を調べに行った時、劇団の人も、彼女がどこから通勤して来ているか知らなかった。電車やバスの定期券も持っていなったというのである。
そこに成瀬リエ子の秘密がある。普通だったら、定期券を買って事務所に通勤するはずだ。それがいちいち現金で切符を買ったのか、回数券を使用したのか、とにかく彼女は普通の通勤方法ではなかった。
彼女は劇団の事務員たちからも自分で孤立していた。交際もいっさいしていなかった。
性格はたいへん素直でおとなしい人柄だったが、自分の住所となると、頑固に誰にも教えなかったのである
成瀬リエ子が今西の住んでいる近くのアパートで自殺した時、劇団関係の人は、はじめてそこが彼女の住所だと知ったくらいだ。その前の住所もわかっていない。
むろん、彼女は劇団に一応の住所を届けている。しかし、それは彼女が劇団に入所した当時のことで、あとで調べてみると、それは彼女の友だちの家で、その後、一年ばかりしてそこを出ていることがわかった。その友だちに聞いても、彼女の転居先を知っていない。
とにかく、自分の住所のことになると、不思議なほど秘密に包まれた女だった。前衛劇団に勤めてから四年後に自殺したのだ。
今西は、そのことから、彼女の恋愛関係を想定している。つまり、友だちの家から一年後に転居した時期が、愛人関係の発生に当たっているのであろう。
逆にいえば、彼女が誰にも打ちあけていない家が、犯人のアジトだったのだ。
しかし、蒲田署が調べた範囲でわからないとなると、これは、ほかにも手を広げなければならぬ。だが、そうなると、範囲は膨大となってくる。調査は絶対に困難だといっていい。しかし今西は希望をまだ捨てなかった。
(成瀬リエ子の恋人の名を知っている人物がいた。死んだ宮田邦郎だ。。彼は、その名を、今西に告げる直前に急死した)
彼は吉村の報告を受けた日、自宅には帰らずに都電に乗って青山に向かった。
前衛劇団の事務所は、外苑の入口近くだった。
夕方だったが事務所の中には灯がついていた。
今西が入ると、事務員が三人、机でポスターや入場券の整理をやっていた。
今西の顔を知った者がいた。
「いらっしゃい」
その事務員は、今西を狭い応接室に入れた。
「いつぞや、たいへんお世話になりました」
今西はダスター代わりに着ているレインコートを脱いで、腰をおろした。
「どうです。その後、成瀬君の前住所のことはわかりましたか?」
事務員は、いいところに客が来たというように仕事をはなれ、一服すいつけて逆に聞いた。
「それが、まだはっきりしないんですよ」
今西は煙草に火をつけた。
「こちらにも、その後、わかっていないでしょうね?」
「全然ですよ」
彼は答えた。
「私も気をつけているんですがね
2025/07/13
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