~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~

 
== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
放 送 (一)
和賀英良の渡米歓送会は、T会館の広間でおこなわれた。
出発にはまだ日はあったが、当人が忙しいので、今夜開かれたのだった。
会場は満員だった。カクレルパーティなので、普通の会食ほど儀式張ってはいない。その代わり、親密げな雰囲気が漂っていた。
会場の入口には、記念のため、三つの芳名帳が用意されてある。それもほとんど、いっぱいになるくらいだった。
会場の顔ぶれは多彩だった。音楽関係はもとよりのことで、文学、絵画、彫刻など、あらゆる文化人が参集していた。新聞社も放送局も来ている。
変わっているのは、こういう場合に見つけない年輩者が多いことである。彼らの雰囲気も少し違っていた。これは、将来、和賀英良の岳父となる田所重喜の関係だった。与党の一方の実力者だし、現大臣でもある。年輩者の多くは政治家と官僚だったのである。
正面の金屏風の間に、マイクが取りつけられてあった。
先ほどから、司会者の指名で、次々と名士がテーブルスピーチをやっていた。着飾った女性も多い。洋装より和装が多いのは、当人がアメリカに行くためであろうか。
その中で田所佐和子が、これも珍しく振袖で和賀英良に付き添っていた。父親の大臣は、上気しているためか、酒のせいか、あかい顔をしている。それが手入れのいい白髪によく似合った。
銀盆を捧げた白服のボーイが、絶えず群衆の間を縫って歩いていた。
群衆といってもいい。とにかく、これほど人を集めた賑やかな会は最近なかった。
静かな談笑と交歓とが、あちこちに起こっていた。
片隅に“ヌーボー・グループ”と呼ばれる面々が固まっていた。若い人ばかりで、画家。彫刻家、劇作家、評論家の面々である。
評論家は、もちろん、関川重雄だった。彼らはテーブルのハイボールを取って飲み、ボーイの盆皿からはカクテルを取った。
「この次は、いよいよ、君だね」
関川重雄に画家に言った。
「ああ」
関川重雄は、折しもスピーチを行なっている老人の方を眺めてうなずいた。
「ぼくは行きたくなかったんだけどな。ほっからすすめられて、つい、その気になった」
「いや、一度は、向うを見ておくもんだよ」
と、パリに行ったことのある先輩の画家が言った。
「あまろ得にはならないが、気持ちだけは広くなる。こりゃ確かだ」
実は、この画家の言葉には小さな皮肉がった。
というのは、陰でささやかれていることだが、関川重雄の急な渡欧は、和賀英良の渡米に刺激されたというのである。
関川重雄は、同年配の和賀を絶えず意識している。その和賀がアメリカへ行くというので、対抗意識をお越し、自分から秘かに運動して金を集めたという噂があったのだ。
つまり、画家の言葉は、そんなせまい料簡をヨーロッパへ行って捨てて来てしまえ、という関川への忠告であった。
関川重雄は、とぼけた顔をしている。
盛大な会はつづいt。
和賀英良が参加者の間に入って来た。
彼を捉えて人びとが取り巻く。
和賀英良は誰とも手短に愛想よく話し、その群を抜けると、また新しい群れの中に入った。絶えず、彼の」行く所に人間の渦が待ち構えていた。
和賀英良がようやく仲間のグループのところへ来たのは、かなり経ってからだった。
「よう」
と、和賀は言った。
「お揃いで来てくれたね」
一度は挨拶をかわしたのだが、仲間が揃っているところとなると、調子も変わってくる。
「おめでとう」
群衆のために堰かれて、まだ和賀に会っていない遅れた参加者が、彼に次々と挨拶を投げかけた。
「素晴らしい会だね」
と、仲間の画家が賞めた。
「こんな歓送会だったら、おれももう一度、どこかに行きたくなったよ」
「よしたがいいな」
と、彫刻家が言った。
「君だったら、せいぜい十人も集まればいいくらいだ。そのうち、半分は、このさい取りはぐれのないように集まった借金取りだろう」
「そうかもしれん・・・」
「関川」
と、和賀英良が評論家の傍に近づいて来た。
「忙しいところを悪かったな。君の歓送会に出られないのが残念だ」
「いや、いいんだ。その代わり、向うのどこかで、君とひょっこり会うかも知れない。そのときは、お互い、大いに飲もう」
関川が和賀の肩を叩いた。
「いい気なもんだな」
と言ったのは、その仲間からがずされた、別のグループだった。
「こんな俗悪な会は見たことがない。見ろ。三分の一は政治家と役人じゃないか。まるで和賀英良の女房の会みたいなもんだ」
関川が和賀と話しているので、
「関川も、このごろ、和賀と握手ができたのかな。前はさんざん陰口をきいていたが、このごろ、言わなくなったじゃないか」
「あいつの対抗意識も、お笑いぐささ。ヨーロッパへ行くななんて、えらく背伸びしたもんだね」
「これで、和賀英良アメリカから帰る。今度は田所の娘結婚式だ。また金縁の招待状がわれわれのところにまわってくるだろう。いやだね、またこんな俗悪な騒ぎを見るのか」
「そんなら出なければいいじゃないか」
「いや、そうはいかん。こういう醜悪な会も、やっぱりしかkり、目に観察しておぁなくちゃね」
と言ったのは、若い小説家だった。
会場の談笑で、この小さな群れの声はヌーボー・グループの屯しているところには届かない。
テーブルスピーチをする人物の格がかなり落ちたとみえ、だれも聞いている者はなかった。
「おい、関川」
と、和賀が関川の耳元でささやいた。
「話がある。ちょっと、こっちに来てくれ」
2025/08/02
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