~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅶ』 ~ ~ |
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== 『 砂 の 器 (下)』 ==
著 者:松本 清張
発 行 所:㈱ 新 潮 社
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放 送 (八) |
羽田空港の国際ロビーは、大勢の人出にぎわっていた。
二十二時発サンフランシスコ行のパン・アメリカン機が出るには、まだ一時間近くの間があった。
いつも、国際線ロビーは、花やかな見送り人で埋められる。とくに今夜は若い人が多かった。それも、髪を長く伸ばした青年が目立つ。若い女性の見送り人も花やかな装いをしていた。華麗な人の渦である。方々に小さなグループがいくつもできて勝手に談笑していたが、見送られる人は一人だった。作曲界のホープ、和賀英良の渡米だった。
時計が九時ニ十分になった。
だれかが出発の近いことを告げた。ロビーで談笑していた連中が、和賀英良の立っているところに集まって、彼を囲んだ。
この夜の和賀英良は、よく似合う新調の洋服を着こみ、胸に大きなバラを咲かせていた。花束もたいそう片腕に抱えている。横には婚約者の田所佐知子が、コバルトブルーのスーツで寄り添っていた。彼女は誰よりもよく笑い、興奮していた。
まるで、二人の新婚旅行のようだと冷やかす者もある。
田所重喜は、白髪のあから顔をにこんこさせて立っていた。現大臣だし、政党の幹部だから、音楽界に関係のない政治家も来ていた。
ヌーボー・グループが和賀のすぐ前にいた。武辺、片沢、淀川などの面々だった。しかし、どういうものか、関川重雄はここに参加していない。
周囲では、関川は急に用事が出来て来られなくなったのあろう、と噂していた。
和賀英良が大勢の人に囲まれて中央で挨拶した。
「・・・それでは、行ってまいります」
晴れがましい顔だ。胸にさした大輪の花が、そのまま彼の幸福を象徴している。
場内のアナウンスがはじまった。
「ホノルル経由サンフランシスコ行の、二十二時発、パン・アメリカン機は、まもなく出発用意が完了いたしますので、ご搭乗の方は、ただいまから出国の手続きをおうけください」
万歳が起こった。おびただしい手が賑やかに揃ってあがる。傍の見送りの人が目をみはって、その情景に見とれていた。
和賀英良は、搭乗客だけの専用通路をおりていた。巨大な外国の旅客機は、すでにエプロンで出発を待っている。
見送りの人たちは、ロビーから送迎デッキに群れて流れ込んだ。そこから、旅客機に乗る和賀英良の最後の姿に歓声をあげ、手を振るためである。折から、機の胴体にタラップがゆっくりと運ばれていた。
空港の建物の下は、乗客が外国旅行に必要な手続きを取る場所になっている。荷物の検閲、ビザの検査、旅費を交換する銀行の出張所など、狭い通路の両側に部署を区切って並んでいる。
そこを通り抜けると、乗客ばかりの待合室がある。スチュワーデスが搭乗開始を知らせるまで、しばらくここで時間待ちをするためだった。
「もうすぐだね」
今西栄太郎が待合室の外で吉村に言った。吉村も両手をポケットに突っ込み、目だけ通路に向けてかすかに胴ぶるいしていた。
「長かったね」
と、今西栄太郎がふとい溜息のようなものを洩らした。
「長かったですな」
それは、吉村の、今西の苦労へのいたわりと、尊敬でもあった。
「君」
今西が言った。
「本人に逮捕状を見せるのは君の役だ。君がしっかり本人の腕を握るんだよ」
「今西さん・・・・」
吉村が、びっくりして今西を見た。
「ぼくはいいんだ。これからは、君たち若い人の時代だからな」
旅客が列を作って通路を歩いて来た。先頭は太ったアメリカ人夫婦だった。荷物の検査、旅券の査閲、通過の交換、それぞれの場所で人びとが手続きをしている。
やがて、その全部をすませた者から、者から、この待合室に入って来た。
待合室は小ぢんまりとしている。最初の人から中に入って、贅沢なクッションに腰をおろしはじめた。
「君」
今西栄太郎がその列のまん中にいる若い日本人を見て顎をしゃくった。
緊張した吉村が何気ないふうで和賀英良のそばに近づいた。
「和賀さん」
和賀英良は、自分に声をかけてきた男の顔を見て、ぎょっとなった。昨日、自宅に押しかけて来た中の、レインコートを着た刑事である。
「すみませんが」
待合室に入る前、吉村は和賀を陰に呼んだ。
そこには今西栄太郎が立っていた。
「せっかくのところ、すみませんが」
吉村はポケットから封筒を出し、中の書類を出して作曲家に示した。和賀英良はふるえそうな手でそれを取り、動揺した視線を走らせた。逮捕状だった。理由は殺人罪の疑いとなっている。見ているうちに和賀英良の顔から血の気が引き、瞳がぽかんと宙に浮いた。
「手錠は掛けません。表に署の車が待たせてありますから、おいでを願います」
吉村は、親しい友のように彼の背中へ手を回した。
西村栄太郎は、和賀の片側にぴたりと寄り添った。一言もものを言わなかった。表情も変わらないが、目だけがうるんでいた。
ほかの客が怪訝そうに、元の道へ戻っていく三人連れを見送った ──。
送迎デッキでは、和賀英良を見送る人びとが大型の旅客機を見おろしている。空港の建物からそこまでは約五十メートルほど離れていた。真昼のような照明がその距離を花道のように照らしていた。
旅客の最初の一人が建物の下から出て来た。見送りの人はいっせいにその方を見つめる。長身のアメリカ人将校だった。つづいて太ったアメリカ人夫婦、背の低い日本人、子供連れの外国婦人、着物を着た若い日本の女性と青年紳士。また外国人とつづく。
和賀の姿は見えなかった。先頭の乗客の一人は、もうタラップをのぼって、自分の見送り人立ちに手を振っている。乗客の行列は次々とつづく。最後の一人が出た。
年寄りの肥えた外国人だ。それきり、あとは誰もつづかない。田所佐和子の顔に、ようやくふしぎそうな表情が流れた。怪訝そうなささやきが、そこここに起こった。
乗客は、スチューワデスなどの乗員の出迎えを受けて、手を振りながら機体の中に吸い込まれていく。最後の人もタラップをのぼった。
みんな妙な顔をした。
おかしい、誰かがそう叫ぶと、変だ、とか、どうしたんだろうか、という声がにわかにあたりに起こった。田所 父娘も、棒をのんだような不安な顔になっている。
この時、きれいな女の声で場内アナウンスがはじめられた。
「二十二時発、サンフランシスコ行のパン・アメリカン機にご搭乗なさいます和賀英良さまのお見送りの方に申しあげます。和賀英良さまは急用が起こりまして、今度の飛行機にはお乗りになりません。和賀英良さまは今度の飛行機にはお乗りになりません・・・」
ゆっくりとした調子の、音楽のように美しい抑揚だった。
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2025/08/06 |
~~ 完 ~~ |
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