~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
コラム-13
「弘安の役」で蒙古軍を襲った台風は、後に「神風」と呼ばれ、「神国日本には神のご加護がある」という一種の信仰のような物へと変わっていきました。しかし台風が来なかったとしても、蒙古軍が日本に勝てたかどうかは疑わしいと私は考えています。というのも、その前から、蒙古軍は日本軍に苦戦しており、前述のように九州上陸が困難だった上、日本には地の利があり、援軍を送ることも可能でした。実際、本州から数万の軍勢が九州に向けて進軍中だったのです(到着前に戦は集結していた)。しかも蒙古軍の兵糧はすでに一月ひとつき分を切っており、長期戦になれば持ちこたえられなかった思われるからです。
「神風信仰」は事後に朝廷によって広められた可能性もあります。蒙古に勝てたのは武士団の奮闘のお陰でなく、朝廷の祈禱によるものだとする方が朝廷の権威が高まるからです。
実際、朝廷は「夷狄いてき調伏」を願って何度も加持祈祷を行なっています。そして最大の勝因は亀山かめやま上皇が伊勢神宮や博多の筥崎宮はこざきぐうまなどに「敵国降伏」の額を奉納したことだと考えました。その証拠に、時宗に対する賞賛をしていません。蒙古来襲以前の従五位から一つ上の正五位下に昇叙こそしていますが、正五位下という位はけっして高いものではありませんし、鎌倉武士団を率いて日本を守り抜いた男にこんな程度の恩賞ではまったく釣り合いません。奮闘の価値をおとんど認めていないようなものです。
これに似た過去の例として「刀伊の入寇」の際に女真族を撃退した藤原隆家を思い出します。高家もまた大した恩賞は与えられませんでした。平安から鎌倉の時代、朝廷は「武力で国を守る」ことの意味と価値を正しく理解していなかったのかも知れません。
北条時宗の功績が公けに認められたのは約六百年も後の明治三七念(一九〇四)のことでした。同年に起こった日露戦争により、強大な外国から日本を守るということの重みを認識したのかも知れません。この時、明治天皇は時宗に対し、最高位から二番目の従一位を追贈しています。
ところで、フビライはその後も日本侵攻を諦めませんでした。第三次侵攻計画は何度も立案され、実際にそのための徴兵や造船も行なわれていました。正応しょうおう五年(一二九二)には本格的に実現へと向かっていたのですが、永仁えいにん二年(一二九四)、フビライの死によって、計画は中止されます。以後、元において日本侵攻が計画されたことはありません。
世界の大半を征服したモンゴル人からの攻撃を二度までも打ち破った国は、日本とベトナムだけです。これは日本人として大いに胸を張ってもいいことだと私は思います。
なお北条時宗は「弘安の役」の三年後、三十二歳の若さで世を去りました。文学的な修辞使うことが許されるなら、時宗という人物は、蒙古から日本を守るために生まれて来た男だったといえるでしょう。
2025/09/17
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