~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
関ヶ原の戦い
秀吉の死後、遺言により、五奉行と五大老が合議制で政治を運営することになったいました。しかし五大老の筆頭であり、最も力のあった徳川家康は、多くの大名と姻戚関係による同盟を結んでさらなる勢力の拡大を図ります。そのため五奉行の一人である石田三成と対立することになりました。
慶長五年(一六〇〇)、三成は家康を討つために挙兵し、家康もまた挙兵します。
この戦いは他の大名たちも捲き込み、三成についた西軍(総大将は毛利輝元)と家康についた東軍との決戦となりました。これが天下分け目の「関ヶ原の戦い」です。秀吉の死からわずか二年後のことでした。
両軍合わせて十五万~十八万の兵力が投入された大戦争となりますが、戦いはわずか半日で、東軍の一方的な勝利に終りました。というのも、西軍の主力部隊を率いる武将が動かず、また東軍へ寝返った者も出たからです。
この戦いに勝利した家康は、三成をはじめとする西軍の大名たちを処刑し、あるいは領地を没収して、多くの大名を傘下に収めました。二百二十五万石の直轄地を持っていた豊臣家も大幅に領地を減らされ、わずか六十五万石の一大名となりました。
慶長八年(一六〇三)、家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開いて初代将軍となります。唯一の心配は豊臣家から恩顧を受けた大名たちが秀吉の遺児、秀頼を担ぎ出すことでした。家康は後顧の憂いをなくすため、幕府を開いた十一年後の慶長一九年(一六一四)の「大坂冬の陣」、さらに翌年の「大坂夏の陣」の二つの戦いで、豊臣家を完全に滅亡させました。
コラム-20
大坂夏の陣で死んだ豊臣家の当主である秀頼は、秀吉が五十六歳の時にできた子供です。正室(本妻)のねねや、生涯にわたって数多くいた側室(本妻以外の妻)との間に、長らく子供が生まれなかったことから、おそらく秀吉は不妊症に近かったと思われます。そんな男が、生殖能力が減退する五十代になってから、側室の 茶々 ちゃちゃ (織田信長の姪、後に よど と呼ばれた)だけを二回も妊娠させたというのはきわめて不自然なことです(茶々が産んだ二人の男児のうち、長男は 夭逝 ようせい 、秀頼は次男)。秀吉は若い頃に側室の一人に子供を産ませたという話がありますが、実子かどうかは不明で、その子は幼くして亡くなっています。
茶々が産んだ二人の子供の父親は、本当は秀吉ではないのではないかt当時の人々も考えていたようです。秀頼の本当の父親は豊臣家の家臣、 大野治良 おおのながはる という説もあれば(当時から茶々との密通の噂があった)、石田三成や無名の陰陽師という説もありますが、実際のところはわかりません。
秀吉は晩年に出来た唯一の息子である秀頼を溺愛し、幼い秀頼を自らの跡継ぎとするために、後継者と決めていた甥で養子の 秀次 ひでつぐ に謀叛の罪をかぶせて切腹を命じました。そして自らが亡くなる一ヵ月前には、五奉行と五大老に、満五歳の秀頼への忠誠を誓わせています。さらに亡くなる十三日前に残した遺書にも、「秀頼を頼む」と繰り返し懇願するように書いています。
ところで、茶々の母のいち(信長の妹)と義父の柴田勝家を自害に追い込んだのは秀吉です。つまり茶々にとって秀吉は両親の仇に他なりません。もし茶々が秀吉を裏切って敢えて不義の子を産み、その子に豊臣家を継がせたら、ある意味、秀吉への復讐を果したという見方が出来なくもありません。秀頼の父親についての真相は永遠に謎ですが、おそらく戦国の世にも現代と同様に公式史料には残らないドラマがあったことでしょう。残された同時代の証言によれば、秀頼は秀吉に似ず、背の高い偉丈夫であったそうです(秀吉は背が低く、信長にサルとかハゲネズミと呼ばれていた)
秀吉の死後、女同士の間にも熾烈な戦いがあったといわれています。ねね(その頃は北政所と呼ばれていた)は豊臣家の家臣がら慕われ、豊臣政権において大きな政治力を持っていましたが、茶々との関係は良くなかったとも言われています。関ヶ原の戦いにおいて、豊臣恩顧の武将の多くが西軍につかなかったのは、ねねが茶々を嫌っていたからという説もあります。ちなみにねねは豊臣家の滅亡後、徳川家に厚遇されました。
余談ですが、徳川二代将軍の忠秀ひでただの正室であるおごうは茶々の妹です(信長の姪)。お江は後に三代将軍となる家光いえみつ を産みますが、これによって織田の血が徳川へと流れ込み、支配者の血脈に残ることになります。
2025/10/09
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