| ~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~ |
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== 『日 本 国 紀 (上)』 ==
著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
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江戸の食文化
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江戸文化で特筆すべきことの一つは、世界に類を見ない外食産業の繁栄です。
江戸で外食産業が流行るようになったのは「明暦の大火」(一六五七)以後と言われています。町を復旧させるために各地から大工や左官や職人などが集まったことで、彼らを相手にした煮売り屋などが増えていったのです。江戸の四大名物料理といわれた「蕎麦」「鰻の蒲焼」「天婦羅」「握り寿司」は、もとは職人たちが手軽にさっと食べることが出来る、今でいうファーストフードのようなものでした。江戸の庶民の多くが本格的な台所は持たなかったことも、外食産業の発展につながったといえます。
京都や大坂では行楽に出かける際などの弁当を持参する風習がありましたが、江戸では庶民も侍も手ぶらで出かけ外食するのが普通でした。文化年間(一八〇〇年代初頭)の頃には、江戸の料理屋は七千を超えていたといわれます。この数は同時代のパリやロンドンを圧倒し、世界一でした。当時、人口約百万人の江戸で七千軒以上というのは、飲食業が盛んな現在の東京を軽く上回る比率です(平成三〇年【二〇一八】の東京の人口は約千三百八十万人、飲食店数は八万数千軒)。
ここでまた驚くことに、江戸時代の後期になると、料理店のガイド本も多数出版され、料理店の番付が書かれたものも人気を呼んでいますた。現代の『ミシュランガイド』を二百年以上も先取りしていたのです。料理のレシベ本もたくさん出版されていました。『豆腐百珍』などベストセラーとなった本も多く、そのうち一冊の『江戸流行料理通』は江戸土産として人気でした。 |
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コラム-28
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江戸の町を語る上で避けることのできないのが火事です。「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるように、江戸では火事が頻繁に起きました。
記憶にあるだけで千奈七百九十八回、記録に残らないものまで含めると、三千回はあっただろうと考えられます。一八〇〇年代の六十七年間だけで九百八十六回という多さです。その中には、死者十万を数えた「明暦の大火」、武家屋敷二百七十五・寺社・町家二万が焼失した「水戸様家事」など、江戸の大半を焼き尽くした規模の大火災が幾度もありました。
火事だけでなく、地震も頻繁に起きました。元禄地震、安政江戸地震などは大きな被害を与えています。
しかしながら江戸の町はそのたびに驚異的なスピードで復興しています。これほどの復興力を持った国は世界に類を見ないばかりか、その力はこと江戸に止りません。
日本列島は、太古から多くの災害に見舞われてきました。世界有数の地震地帯にあるため、江戸時代にも全国各地が大震災に見舞われ、それに伴う大津波の被害にも遭っています。さらに夏から秋にかけては、毎年のように西に本を中心に大型台風が襲い、台風や豪雨による河川の氾濫や防波堤の決壊も日常茶飯事でした。北陸、東北では豪雪による被害も少なくありませんでした。
現代でもこうした天災の被害は甚大ですが、江戸時代におけるダメージの大きさは今とは到底比較になりません。人々は災害のたびに家屋や田畑や財産を失いまた何よりも大事な家族を失いました。
しかし私たちの祖先は決して挫けませんでした。悲しみと痛手を乗り越え、そのつど力強く立ち直ってきたのです。日本人の持つ独特の「忍耐強さ」「互いに助け合う心」「過去を振り返らない強さ」「諦めのよさ」などの精神は、もしかしたら繰り返しやって来る災害に立ち向かってきたことで培われたのかも知れません。その意味では、私たちの性格は日本という風土が生んだものといえるのではないでしょうか。
江戸時代が幕を閉じた約七十年後、日本は大東亜戦争へと進んで、その結果、世界が眼を見張る奇跡の復興を遂げるのですが、その原動力もまた、長年にわたる災害との格闘という民族の歴史が育んだ精神の遺産と言えるのかも知れません。 |
| 2025/10/25 |
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