~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅶ-Ⅷ』 ~ ~

 
== 『日 本 国 紀 (上)』 ==

著 者:百 田 尚 樹
発 行 所:幻 冬 舎 文 庫
 
 
 
 
 
「五公五民」の嘘と「百姓一揆」の真実
ここで江戸時代の農民の暮らしについて語りましょう。
農民は収穫した米の半分(「五公五民」という)、あるいは六割(「六公四民」という)を年貢米として領主に納め、悲惨な暮らしをしていたという誤ったイメージがあります。農民は米を食べることが出来ず、ヒエやアワばかり食べていたという話もまことしやかに伝えられています。
八代将軍・ 吉宗 よしむね の下で、享保の改革の裏方を務めた勘定奉行、 神尾春央 かんおはるひで の「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」という方言が独り歩きしたためでもありますが、「悲惨な農民」のイメージは一種の印象操作の産物です。
江戸時代の農民は人口の約八割を占めていました。よく考えればわかることですが、収穫した米の半分を年貢で取るということは、残りの二割の人口でそれを食べていたということになり、それはあまりにも不自然です。また人口の八割がヒエやアワばかり食べていたならば、日本のほとんどの農地がヒエ畑やアワ畑だったということになります。近年の研究では、江戸時代の農民の生活は実はそれほど悲惨ではなかったということが明らかになっています。ここでも、いやそうではないと、わざわざ悲惨な例を持ち出して、江戸時代の農民の貧しさを訴える歴史学者がいます。たしかに現代の基準で見れば、当時の農民が苦しい生活をしていたのはたしかです。ただ、それは武士や町民も同じです。私が言いたいのは、長い間、日本の歴史学者の間に根強くあった「貧農史観」で江戸時代の農民を見るのはやめようということなのです。
江戸時代の年貢は個人ではなく、村に対して課され、年貢率は「 村高 むらだか 」と呼ばれる村の生産力、村が作り出す富の総量を米の量に換算した数字をもとに決められました。この村高はほとんどの地域で寛文から元禄までに行なわれた検地によって決まってしまっていました。その一方で、未墾地の開発がこの時代までにほぼ終わり、その後は商品価値の高い作物を工夫して作るようにもなっていたのです。こうして元禄以降は、村の富が増大しても村高には反映されない状況となり、農民には余裕が出来ていったのです。
享保の改革の頃になってもこの状況は続き、表向きは「五公五民」とされながらも、実際、享保元年(一七一六)から天保一二年(一八四一)までの年貢率は三十~四十パーセント、四公六民から三公七民という状態になっていました。生産性の向上、収益性の高い作物栽培の導入に加え、農産加工品の発達などによる現金収入の増加も「村高」に反映されなかったため、実質的な年貢率は一〇~三〇パーセントだったと類推されてもいます。この税率なら重税に苦しんでいたとはいえません。
また「農民を虐げ冷酷に税を取り立てる武士」は、実は江戸時代の農村にはいませんでした。そんな武士の姿が見られるのは主に後世に創作された映画やドラマ、漫画の中だけと言っていいでしょう。
江戸時代の農村では農民による自治が行なわれていました。これがヨーロパにおける農村や農民と大きく異なる点です。日本にはヨーロッパや中国で見られたような農奴は存在しませんでした。旅や移動の自由は認められていましたし、次男や三男が江戸や大坂に出稼ぎに行ったり、その地に町人となって住みついたりするのは珍しいことではありませんでした。
元禄時代以降、農地が拡大し農村の収入が増えていっても、幕府が新たに検地を行なって村高をつかみ直すことは、新田以外はほとんど不可能となっていました。後の天保の改革の時に、近江国では幕領検地を行なおうとしたことがありましたが、農民の反対によって頓挫しています。つまり、支配者としての武士、虐げられる農民というのは江戸時代の実相ではないということです。こうして農民は着実に富を蓄え、休日を増やしたばかりか、村祭りなどの機会を利用して娯楽を享受するようになっていきました。
とはいえ、飢饉になれば東北地方を中心に多くの餓死者が出たことも事実です。海外貿易による食料輸入がなく、自給率一〇〇パーセントの国では常にその危険がつきまといます。これはある意味、仕方のないことです。大飢饉の時は「米所」の大坂の町人にも多くの餓死者が出ています。
ところで、「百姓一揆:に関しても、誤解が多いように思います。大勢の農民が鍬や竹槍を持ち、武士と争うような一揆は、江戸初期を除いては、ほとんど起こっていません。それらは戦国時代の土一揆のイメージです(戦国時代の一揆では農民も武士と同じく武装していて、戦争とほぼ同じだった)。元禄時代以降の一揆は農民が集団で、あるいは代表を立てて、領主や代官と交渉するという形がほとんどです。これを越訴おっそといいます。越訴は幕府も各藩も禁じていましたが。実際に越訴が行なわれた時も、多くの場合、代表者も農民も罪には問われませんでした。ただし、その際に徒党を組んだり乱暴に及んだしした場合は、首謀者は磔などの刑に処せられました。
とはいえ、飢饉などで逼迫した状況の時は、豪商や米問屋に対して、集団による「打ちこわし」(豪商の屋敷などを民衆が破壊すること)などの騒乱事件はたびたび起きています。これは一般の町人も行なっているもので、通常の百姓一揆とは別に考えるものかも知れません。
2025/10/26
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