さきに、楊�ｻ (ヨウショウ) こと楊国忠 (ヨウコクチュウ) の登場により、すでに登場していた李林甫 (リリンポ) と安禄山の二人と共に、これで玄宗朝の幕引きをつとめる立役者が三人出揃ったことになる、と述べた。この三人については、それぞれ別の執筆者が書かれるので、ここは詳述を避けるが、しかし、楊貴妃との関連としてどうしても避けるわけにもいくまい。
楊�ｻがはじめて玄宗に拝謁したのは天宝四載、楊玉環が貴妃となったその年であるが、五年後の天宝九載には国忠の名を賜った。
官位はすでに御史中丞 (ギョシチュウジョウ) すなわち百官の罪を糾明する役職についたが、宰相の李林甫と、楊貴妃にとりいってその養子となっていた安禄山には頭が上がらなかった。でっぷりと肥っていた安禄山が階段を上り下りする時は、楊国忠は手を貸してこれを扶けてやった。
ところで、その安禄山とはいうと。李林甫の前でだけは緊張するのだった。先にも述べたように、李林甫は教養もない野卑な男であったが、勘は鋭かったと見えて、安禄山と話をしていると、安禄山の言わんとすることを先回りして言ってしまう。そんなところが、安禄山をして李林甫を畏怖せしめることになったのであろう。。それ以外の高官に対しては、かれは等しく侮っていた。
安禄山は、周知のように漢族の出身ではない。西域系いずれかの民族、いわゆる胡人 (コジン) であった。唐代の長安は、当時としてはおそらく世界最大の国際都市であり、したがって胡人の存在そのものが珍しいということはなかった。むしろ、胡人の文化は長安にあふれ、そのうちのいくつかはファッションにさえなった。
胡人としての安禄山の台頭は、そのような背景を抜きにしては考えられない。そして、なかなか頭も切れ、六種類の 「蕃語 (バンゴ) 」 に通じていたという安禄山は、そのような背景をフルに利用して玄宗の前に登場してきたのである。
かれは、漢人の礼法には通じていない胡人という立場を逆手にとって、漢人の常識にはあり得ぬ事を平気で玄宗に言った。たとえば、楊貴妃より年長であるにもかかわらず、楊貴妃の養子にしてほしいと願い出て、玄宗の許可を得た。
玄宗と楊貴妃に拝謁する時は、 「義母」 たる楊貴妃を先に拝し、帝たる玄宗を後で拝したので、さすがの玄宗も訝ったところ、安禄山が 「わたしども蕃人は、なにごとも母を先にし、父を後にするのです」 と答えたので、玄宗は大いに喜んだという。
中国の礼法の最も根幹の部分を踏みにじられて喜ぶ玄宗に問題があることももとよりであるが、それについてはあとで改めて考えることとして、安禄山の専横ぶりについて付け加えよう。
天宝十載 (751) この年は玄宗朝の破局への予兆がはっきり見え始めた年である。正月二十日は安禄山の誕生日であった。玄宗と楊貴妃が、服装や宝器や酒饌 (シュセン) などをこぞって賜ったのはいうまでもないこととして、その後とんでもない愚行をやらかした。
すなわち、楊貴妃は安禄山を禁中に召し、錦繍であつらえた巨大な襁褓 (ムツキ) で彼をくるみ、派手な輿にのっけて宮人たちにかつがせた。もともと安禄山は大男で、便々たる腹をかかえてフーフーしながら歩くといった体格であったが、そんな男が襁褓姿になったので、後宮の者すべてが笑いこけた。それを聞きつけてやって来た玄宗に、側近が 「貴妃様が禄児 (ロクジ) に産湯をつかわせていらっしゃるのです」 といった。玄宗は怒るどころか大いに喜び、産湯のための金銭まで下賜したという。
もとより、後宮は帝をのぞくあらゆる男性の禁断の所、そこへ、楊貴妃の養子というあやしげな資格でもって、安禄山は大きな顔で自由に出入りするようになったのである。やがて彼は、義母たる楊貴妃と差し向いで食事をとるようになり、夜中でも退出しないことが多くなり、あげくはあやしげな声が外に洩れてくるようになった。ここまでくると、貴妃と安禄山との密通説がささやかれるようになる。
いったい、帝寵をもっぱらにしている身の楊貴妃が、人目も憚らず帝の寵臣と密通するなどということがあろうか。
そもころ、玄宗はすでに六十七歳、三十歳を出たばかりの女盛りの楊貴妃を性的に満足させられなくなっていたと推測できる。貴妃と安禄山の狂態を怒るどころか笑って容認していた玄宗の心中は、嫉妬や怒りなどこもごも去来していたであろうが、なによりも貴妃を失うことを恐れ、貴妃のなすがままを認め、貴妃の喜ぶことをさせるにまかせるといった状態であったに違いない。
そして、安禄山は、玄宗のそのような心理を見抜いた上で、宮廷内の紊乱をいや増しに増し、帝の権力の失墜を待っていたのであろう。
彼にとっては、楊貴妃との狂態も、謀叛のための準備にすぎなかったのである。
実際、このころの安禄山は、宰相の李林甫 (リリンポ) の追い落とし策を密かに練りはじめる一方で、
河東節度使 (カトウセツドシ) として兵力を蓄えはじめていた。契丹人などの捕虜八千余を私兵とし、戦馬は数万、さらに胡商を通じて金銀財宝を集めた。