〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/19 (金) 児玉 源太郎

明治三十六年十月一日。日赤病院で日本陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死する。
田村は 「今信玄」 と称された陸軍きっての戦略家であり、川上操六の死去に伴って対ドシア戦争の作戦立案を引き継いでいた。
田村の死因は破傷風からの心臓昴進症とされているが、実際には対露作戦立案にあたっての過度のストレスによるものではないかといわれている。
その田村の後を継いだのが 「第三の孔明」 児玉源太郎である。当時、内務大臣と台湾総督を兼任していた児玉が、参謀本部次長という異例の降格人事を引き受けたのだ。この報には誰しもが日露開戦近しと感じたことだろう。
児玉はその際 「ただし、山縣 (有朋) の爺さんでは困る。ガマ坊 (大山巌) とならやれる」 と注文をつける。
当時、第一線から見を引こうとする大山とその後釜に就こうとする山縣の行動を牽制しての就任だった。
ここに大山と児玉という日露戦争の最高のコンビが誕生する。因みに渾名の 「栗鼠」 は小柄でちょこまかと動き回るところからついたものだという。

長州出身といっても支藩の徳山藩の出である。幼年期は維新の嵐の中で父兄を失い辛酸をなめた。戊辰戦争に参加すると、函館の五稜郭の戦いでは小隊長として機転を働かせて敵の攻撃から隊の総崩れを救っている。
戦後、陸軍に入る。因みにこの時、先輩の桂太郎は留学、三歳年長の乃木希典も郷里に帰ってしまう。
児玉の日本陸軍軍人としての歩みは軍曹から始まるのだ。その後、出戻りの乃木が少佐で陸軍入りしたのとは対照的な船出であった。
そして、佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争と戦歴を重ねて軍上層部に 「児玉が居れば間違いない」 とその存在が知られていく。
着実に昇進を果たし、大佐として千葉の陸軍第二連隊長時代には乃木 (第一連隊) と肩を並べるに至っている。この時のエピソードが戦下手の乃木を散々に蹴散らした児玉の戦上手の逸話である。
児玉自身は乃木とは非常にウマがあったようで、自分の結婚の相談などにも乗ってもらっている。その友情は生涯続くのだが、運命は日露戦争旅順要塞攻略戦へと二人をたぐり寄せていくのであった。
この頃の児玉は小村寿太郎同様、借金で首が回らなくなっていて軍人廃業を口に出すまでに至っている。これは児玉自身の遊蕩と知人の保証人になったことなどが原因しているのだが、天才的な戦略。戦術・軍政家としての彼の功績を知る我々としては意外なエピソードである。この借金問題は先輩の桂太郎の奔走で解決するのだが、長州人としては珍しく、その性質はいたって 「陽性」 であったとしておこう。

児玉の能力を高く評価していた川上操六の意向によって、明治十八年に参謀本部管東局長に任命される。その後、監軍部参謀長兼務で初代陸軍大学校長に就任。この時ドイツから日本陸軍の育成に呼び寄せたメッケルと出会う。
メッケルは当代随一の用兵家モルトケの愛弟子であり、児玉は校長という立場でありながら生徒に混じって、その教えを吸収していく。メッケルは一番優秀な生徒は誰かと問われて児玉 (校長) と小川又次 (教官) の名を挙げたと言う。
その後、陸軍次官兼軍務局長として大山巌陸軍大臣に仕える。そして、日清戦争においてはメッケルに学んだ兵站 (補給、輸送) を一手に引き受けることになる。
さらに特筆すべきは、日清戦争終結後の復員兵を対象とした大規模な検疫事業を成功させたことだろう。
伝染病は戦時下の戦闘での死傷者よりもその被害は大きく、日清戦争の死亡者が約一万三千人。その九割は伝染病によるものだった。
彼らが持ち帰ってくる赤痢、コレラの伝染病が日本中に蔓延した場合、未曽有の厄災に見舞われるのは明白だった。児玉は当時無名だった医師の後藤新平を大抜擢し、23万2千3百人の検疫事業を行った。
また、明治三十一年に台湾総督に任命されると農業博士・新渡戸稲造の 「糖業改良」 案を採用して、台湾の地場産業育成に貢献する。これは台湾を力で制圧するのではなく 「民福を計る」 児玉の理念であり、列強の植民地支配とはまったく違った経営統治といえよう。
この後八年間、児玉は陸軍大臣や内務大臣を歴任するのだが台湾総督は日露講和条約締結の翌年まで兼任し続ける。これは台湾から捻出される利益を児玉が企画する案件に活用する為でもあったようだが、決して私利私欲のものではない。

明治三十四年に桂内閣が誕生すると陸軍大臣で入閣する。
海軍大臣・山本権兵衛、外務大臣・小村寿太郎の 「少壮内閣」 は世間から 「三流内閣」 と陰口されるが、このメンバーが三年後の日露戦争を指揮することになる。
児玉は後に内務大臣に就任、文部大臣も一時兼任する。
この時児玉は英国に海底ケーブル施設船 「沖縄丸」 を発注する。この船が明治三十五年五月までに台湾までの通信用海底ケーブルを完成させるのである。
続いて、明治三十六年に佐世保〜東京、そして朝鮮半島、北方領土などへの通信システムを敷設完備した点は大きい。児玉は来るべき日露戦争は情報戦になると考えていたのだ。
そして、冒頭の田村怡与造の急死によって二階級降格の陸軍参謀本部次長に自ら進んで就任する。軍政家として手腕を発揮した児玉が軍令家として、戦略家として対ロシアの戦いの最前線に立つのだ。
しかし、どう考えてもロシアと戦って勝てる目算は立たない。完勝など無理であり、うまくいって四分六で勝つ場面もあるだろう。そのタイミングで講和に持ち込む。これが児玉が描いた日露戦争の戦略の柱である。その点は児玉が信頼する大山も同意権であった。
そして、明治三十七年二月九日、日本はロシアに対して宣戦布告をする。

ここまで児玉源太郎の日露開戦までの半生を紹介してきたが、開戦と同時に彼の抱える問題は肥大化し、深刻なものになっていく。
第一が旅順要塞の存在である。当初、児玉は旅順に戦略的な重みを置いていなかった。
「旅順など竹矢来でも置いておけ」 といったのは日本軍が朝鮮半島から遼陽、奉天を突きロシア軍と対戦することを主眼としていたからだ。
ところが、予想に反してロシア艦隊が戦いを避けて旅順港に閉塞してしまう。この旅順港のロシア艦隊とバルッチク艦隊が合流したら、日本海軍の戦力では勝ち目はない。
海軍の要請もあり、急遽第三軍を編成してその要塞攻略にあたらせた。この要塞攻略に乃木率いる第三軍は大苦戦を強いられるのである。
さらに日本陸軍は開戦当初から慢性的な弾薬不足に陥っていた。国力の問題といえばそれまでだが、その準備に余念がなかった海軍と比べて、陸軍首脳陣は近代戦争に対しての認識が欠けていたことは事実だろう。
児玉が参謀本部次長に就任した時期からいって、その責任を全て彼に押し付けるのは酷なのだが、桂内閣発足当時に陸軍大臣として二年ほどその職にあった点から非難されても仕方ないだろう。
しかし、児玉源太郎は日露戦争を通じて、まさに八面六臂の活躍をしており、彼の存在が日本を勝利に導いたことは間違いない。
司馬遼太郎の 『坂之上の雲』 では、人事を尽くした児玉の最後の行動として 「祈りに託す」 という場面を幾度となく描いている。
合理的で天才的な人物の行動としては意外でもあり、その意味で深く印象に残るシーンだが、策戦家が全身全霊を傾けて思考の限りを尽くした時、 「児玉」 や 「秋山真之」 などの天才といわれた人間でさえも、行き着く先は 「祈り」 なのかと考えさせられる。

この苦闘する児玉を支えたのは大山巌ではないだろうか。すべてを児玉に任せたこの大山巌の存在がっどれほど救いになったか、児玉自身が見にしみて感じたことだろう。
海軍において西郷従道と山本権兵衛を最高のコンビと評したが、それに負けずとも劣らないのが大山巌と児玉源太郎のコンビであろう。その意味で児玉と山本は似ている。奇しくも二人は同年生まれである。山本権兵衛同様に磊落で、乃木のような人格者ではなかったが、その判断力、行動・実行力は絶大なものがあった。
奉天開城後の総司令部で受話器を握りしめた児玉源太郎の目からボロボロと大粒の涙が、こぼれ落ちる。それはポーツマス条約締結の知らせであった。
児玉の日露戦争は終った。彼の使命はこの戦争の終結であり、これまでの戦略、戦術はそのための手段であったのだ。そして、児玉が幾度も旭日に祈った願いこそがそれである。
人一倍鼻っ柱が強く、終生泣き言など言わなかったであろう彼の 「一生に一度の男泣き」 である。
司馬遼太郎は 『竜馬がゆく』 のラストでこう書いている。
「天には意志がある」 と前置きした後、 「天がこの国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命が終った時惜し気もなく天に召し返した」 と。
児玉は若者ではなかったが、日露戦争終結の一年後に病没している。

「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ