九年に渡る大動乱については、本書の随所に詳述されているので、ここでは省略させていただく。
潼関を守備する、哥舒翰 (カジョカン) の率いる官軍がいつめつ潰滅し、長安が大混乱に陥った天宝十四年五月から六月にかけて、杜甫は妻子を連れて奉先からその西北白水
(ハクスイ) へ、更にその北方の?
(フ) 州へと避難の旅を続けた。
馬嵬 (バカイ) の悲劇の後、玄宗の践祚 (センソ)
を受けた粛宗が、霊武 (レイブ) (甘粛省)
に安在所 (アンザイショ) を設けたことを聞いた杜甫は、?州
(フシュウ) の羌村 (キョウソン)
に家族を残し、単身で粛宗の軍に加わるとするが、途中で安禄山軍に捕らえられて長安に連れ戻される。
幸いにして、杜甫が無名であったため、長安に留め置かれるだけで、処罰されずにすんだ。
都の荒廃を心にいためつつ詠われた 「春望」 と題する作品は、その折りのものである。
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春 望 |
国破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金
白頭掻更短
渾欲不勝簪 |
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国破れて山河在り
城
春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺
ぎ
別
を恨んでは鳥にも心を驚かす
烽
火
三月
に連
なり
家
書
萬金
に抵
る
白頭
掻
けば更に短く
渾
べて簪
に勝
えざらんと欲す |
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荒廃した長安に、また春が巡ってきた。国は破れ人の世は変わり果てたが、春が来れば花が咲き、鳥は歌う。ああ、何という無情、悲哀であろう。
これは、粛宗の至コ二年 (757) 春、四十六歳の作である。
その後間もなく四月のある日、思い切って長安を脱出し、鳳翔 (ホウショウ) (陝西省)
に安在所を移した粛宗のもとにたどりついた杜甫は、その忠誠よって左拾遺 (サシュウイ)
の官を授けられた。左拾遺は、天子の諌め役である。それから約一年の間、杜甫はこの官職に自分の使命を感じ、精励恪勤
(カッキン) した。
この間に、同年十月には長安が官軍によって奪回され、粛宗に続いて、玄宗も亡命先の蜀から帰って来た。
杜甫は、朝廷に左拾遺として出仕する身となったが、間もなく起こった朝廷内部の争いに巻き込まれ、乾元
(ケンゲン) 元年 (758) 六月、長安の東の華
(カ) 州という田舎町に、司功参軍 (シコウサングン)
として飛ばされてしまう。
暮れから翌二年の春にかけ、出張を兼ねて久しぶりに洛陽の陸渾 (リクコン)
荘の家に帰るが、その往復の途中で戦争にかり出される庶民の苦難を目の当たりにして、その庶民の代弁者として詠った
「新安吏 (シンアンノリ) 」 「潼関吏 (ドウカンノリ)
」 「石壕吏 (セキゴウノリ) 」 「新婚別 (シンコンノワカレ)
」 「垂老別 (スイロウノワカレ) 」 「無家別 (ムカノワカレ)
」 の、いわゆる “三吏三別” の詩は、常に逆境に終止した杜甫の怒りと歎きを、すべての庶民の怒りと嘆きとして詠った傑作である。
乾元二年 (759) の夏、陝西 (センセイ) 省一帯は大飢饉に襲われ、生活は苦しくなるばかりである。田舎の小役人としての自分の立場と、将来への希望を失った杜甫は、この年の秋に遂に意を決し、司功参軍の職を棄て、家族と共に西方の秦州
(甘粛省天水) に向かう。このとき以来、杜甫は再び故郷の洛陽へ帰ることはなく、長安の地を踏むこともなかった。
秦州に四ヶ月、更に移って同谷 (ドウコク) (甘粛省成 (セイ)
県) に一ヶ月ほど滞在した杜甫の一家は、更に安住の地を求めて蜀
(四川省) に向い、年末に成都に至った。この、秦州に滞在中、李白の消息が耳に入ったらしい。 「李白を夢む」
という詩を作っている。 |
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現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:巨勢
進 ヨリ |