世道 日々 萎靡し
妖夷 歳々 陸梁す
滔滔たり 世上の人
幾個か履霜に感ずる
壮士 剣を按じて漫りに自ら許す
馬革 屍を嚢むは 男児の常
多憂の書生 閑文章
還た事務を論じて廟堂に向う
此の如くにして死すれば吾に於いては足れり
直諫 先ず著く 第一槍
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世道日萎靡
妖夷歳陸梁
滔滔世上人
幾個感履霜
壮士按剣漫自許
馬革嚢屍男児常
多憂書生閑文章
還論事務向廟堂
如此而死於吾足
直諫先著第一槍 |
※嘉永六年(1853) 八月の作。二十四歳。
この年六月、ペリーが艦隊を率いて浦賀に入ったとの知らせに接し、松陰はただちに浦賀に出向き、江戸へ戻ると 「将及私言」
「急務条議」 「海戦策」 等を書き上げて藩庁に差し出した。
ただし、この時の松陰の藩内での立場は、さきに寛永四年暮れから東北周遊が藩の許可を得ぬままに出かけたものであったが為に、その処分として士籍および家禄を奪われ父杉百合之助の育みということであったので、藩主が松陰を愛して心に懸けてくれるということはあったにしても、公然と時事を論じ上書するような行動は、不謹慎であるとの非難を免れなかった。
それは松蔭自身も予想していたことで、「急務条議」 の末尾にこの詩を添え、 「呉々も吾が平生の心事、此の外に之れなき事」
と結んでいる。
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