東方に俊潔有り
志尚 素より群せず
常に非常の功を慕い
又た非常の人を愛す
吾誤って知愛を辱くするも
其の因る所を知らず
一別 山河?かに
情懐 九旻に訴う
??涼涼たる者
孑立 誰れ有ってか隣しまん
絶海 千万の国
何を以てか新聞を得ん
国家方に多事
吾が生 辰ならざるに非ず
涓埃 国に益すること有らば
敢て身後の賓を望まんや
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俊潔=佐久間象山をさす。俊は、千人に抜きんで、潔は、万人に抜きん出た人物。
志尚=こころざし。理想。
不群=多くの人々の中に抜きん出ている。
非常功=人並みでない、特に傑出した功績。
知愛=人物を認めて可愛がること。また、その人物行動を十分理解すること。
九旻=九天に同じ。九層からなると考えられていた天空の最高処。
孑立=孤独に一人立つこと。
有誰隣=親しむ者のないことろいう。
新聞=新しい知識。ここは諸外国についての新たな情報。
非不辰=辰は、時。よい時機に際会していないわけでもない。
涓埃=涓は、一滴の水。埃は、一点の塵で、微細なことにたとえる。
身後賓=身後は、死後。賓は、立派な人物であると重んぜられること。 |
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※嘉永七年 (1854)
三月も作。二十五歳。
佐久間象山が松陰に送った送別の詩。
歩は、送られた詩に韻を合わせて作る和韻のことで、本詩の場合、象山の 「送吉田義卿」 での韻字を同字・同順で用いていて、和韻のなかでも次韻と呼ばれる方式による。
却呈は、お返しの詩を作って差し出すこと。
嘉永六年 (1853) 九月、長崎に来航したロシア艦隊によって国外へ出ようとする松陰に、象山は 「送吉田義卿」 の一詩を贈ってはなむけとした。
長崎へ松陰が着いた時にはロシア艦隊はすでに去ってしまっていたため、いったん江戸へ戻った松陰だったが、本年三月になってアメリカのペリーが再び艦隊を率いて浦賀に来ていると聞き、三月五日、早く長州を脱藩していた同志の金子重之助とともに江戸を発って浦賀に向かった。
浦賀ではペリー艦への乗船を拒否された上、国外への渡航を謀ったことが発覚し、松陰らは自首して出ざるを得なくり、象山も 「送吉田義卿」
の詩が松陰に出国をそそのかした証拠とされて獄舎に囚われることとなった。
安政二年 (1855) 三月、松陰は江戸の獄中にあって前年の浦賀へ向かう前後のことを 「回顧録」 と題してまとめているが、それによれば、安政元年三月五日、江戸を発つ当日、佐久間象山の家に別れを告げに立ち寄ったが、象山はペリー艦隊警戒の為に横浜に出かけて不在であった。
そこで手紙に添えて 「去年西遊の時、象山送詩の韻を歩せし短古二首」 を家人に託して立ち去った、と。本詩がその詩で、やはり江戸の獄中で書かれた
「幽囚録」 に附載されている。 |
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