※安政五年 (1858) 十二月の作。二十九歳。
安政二年 (1855) 十二月、病気療養を名目として野山獄から出て杉家の幽室に移ることを許された松陰は、翌安政三年 (1856)
八月頃から近隣の子弟のために 『武教全書』 の講義を始め、やがてこれが松陰の叔父玉木文之進や久保五郎左衛門の開いていた私塾の名を受け継いで松下村塾となった。
ところが、村塾に集う人々の言動が政情に対して次第に過激なものとなってゆき、安政五年の秋には幕府老中間部詮勝を襲撃する血盟がなされたりもしたため、藩庁では再び松陰を野山獄に厳囚する処置をとった。
本詩は野山獄に戻されるにあたり、松下村塾に書き留めたもの。 |
宝祚隆天壌=宝祚は、帝位。天壌は、天地に同じ。『日本書紀』
神代紀下に、「宝祚の隆んあなる、当に天壌と与に窮まり無かるべき者なり」。
同其貫=皇統が万世一系であることをう。『漢書』 董仲舒伝に
「夫れ帝王の道は、豈に同条共貫ならざらんや」。
今世運=運は、時運、時勢のめぐりあわせ。この句、「今の世運」
とも読める。
岸獄=岸も獄も牢屋。『詩経』 小雅に「岸にある宜く獄にある宜し」。
|
|
宝祚 天壌に隆んに
千秋 其の貫を同じうす
何如ぞ 今世の運の
大道 糜爛に属するを
今 我 岸獄に投ぜられ
諸友 半ばは難に及ぶ
世事 言う可からず
此の挙 旋って観る可し
東林は季明に振るい
太学は衰漢を持う
松下 陋村と雖も
誓って神国の幹と為らん
|
|