※安政六年
(1859) 十月の作。三十歳。 この年五月、幕府の命令によって松陰の身柄は萩から江戸藩邸に移され、七月以降は評定所の呼び出しがあって伝馬町の獄舎に入れられることとなった。以後、三度にわたる尋問を経て、十月十六日には口書き読み聞かせが行われた。
松陰は死刑に処せられることを予感し、親族門人への永訣の書簡をしたためたり、「留魂録」 をしるすなど、最期の日への用意をはじめた。 この詩も、そうした中で作られていたものかと思われる。
十月二十七日、死罪の申し渡しがあり、獄舎内にて処刑されるにあたり、 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」 の和歌とともに口吟したものだという。
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吾 今 国の為に死す
死して君親に負かず
悠悠たり 天地の事
観照 明神に在り
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