送 藩兵為天子親兵赴闕下 失  題 示 子 弟
偶  作 蒙使朝鮮国之命

 藩兵はんぺい天子てんし親兵しんぺいりてけつおもむくをおく
王家衰弱使人驚

憂憤捐身千百兵

忠義凝成腸鉄石

為楹為礎築堅城
おう衰弱すいじゃく ひとをしておどろ使
憂憤ゆうふん 
つ 千百せんひゃくへい
忠義ちゅうぎりてる ちょう 鉄石てっせき
はしら
いしずえりて堅城けんじょうきず
明治4年 (1871) の作。45歳。
この年3月、鹿児島藩から歩兵四大隊、砲兵四隊が朝廷の親兵となるため上京した。当時、西郷は鹿児島藩大参事として鹿児島に在り、将兵の出兵を見送った詩。
王家衰弱=王家は、朝廷。武家の政権が続いていた間、朝廷は経済的な面でも窮迫に苦しむことが多くあった。まして、朝廷自身の兵力を持つこともできぬままであったために、明治維新によって新たに朝廷中心に新政府を構成したものの、当初政府が直接指揮できる軍隊は、長州藩の亀山隊、致人隊を中心に諸藩の浪士と十津川郷士、山科郷士 等を加えてにわかに編成された護衛兵1千400名ほどにすぎなかった。
そこで、山県有朋らの献策によって明治4年2月、薩長土三藩から兵士を差し出して御親兵とすることが決まり、総数一万と称する国軍をはじめて持つことができた。
これによって、新政府の威信は高まり、同7年の廃藩置県も断行することができた。
捐身=身を投げ打って尽くすこと。  千百=数千数百の多数の意。
凝成=こり固まってできあがった。
腸鉄石=腸は心腸、心肝で、こころというに等しい。鉄石は鉄や石のように堅くゆるぎなきこと。
楹=建物の柱  礎=建物の基礎
武門の政権が長く続いたために、朝廷の衰微はまことに人を驚かせるほどにいたっている。それを憂えた鹿児島藩の多くの兵士が、すすんで天子の親兵となって身命を捧げる決意をしたのである。
諸君の忠義は鉄石の心腸となって揺るぎない。国家の柱ともなり礎ともなって、堅固な護国の城を築いてもらいた。
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 しつ  だい
去来朝野似貪名

竄謫餘生不欲栄

小量応為荘子笑

犠牛繋杙待晨烹
ちょう去来きょらいするは むさぼるに似たり
竄謫ざんたくせい えいほつせず
小量しょうりょう  まさそうわらいとるべし
ぎゅう くいつながれて晨烹しんぽう
去来朝野=文字通りには、朝廷に出仕したり、去って野に下ったり、ということであるが、実際には今回の上京をさしており、去来の来、朝野の朝にしか意味はない。去来、朝野ともに片義的な用法。
似貪名=ひとえに名声を得ようとしているかに見える。
竄謫=遠方に追放されること。流罪。
小量・犠牲の二句=小量は小さな料簡。つまらね考え。 荘子は戦国時代の学者で、『荘子』 の著者として考えられている人物。
『史記』 荘子伝にいう。楚の威王が荘子を大臣として迎えようとした時、荘子は使者にむかって、「郊での祭りに犠牲として用いられる牛は、きれいに飾って大切に養われるが、いざ殺される日になって嘆いても追いつかない」 と述べて招聘を拒絶した。ここでは、荘子の犠牲の牛の例をふまえて、朝廷で高位顕官となることばかりを考えているような狭い料簡でいると、結局は犠牲の牛と同じことで、跡から悔やんでも間に合わないことになる。それでは荘子に笑われよう、と。
晨烹=祭りの朝に犠牲の牛を殺して料理すること。
このたび朝廷に入ることは、名利を貪るように見えるかもしれない。しかし、かって何度も遠くに流罪とされながら、幸い生きながらえてきたこの身、もはや何の栄誉もほしいとは思わない。
それに、都の役人となって出世したいとういような小さな料簡であっては、かの荘子に笑われよう。
私の上京は、ちょうど犠牲とされる牛が、杙につながれて殺される朝を待つようなものなのだ。
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  ていしめ
学文無主等痴人

認得天心志気振

百派紛紜乱如線

千秋不動一声仁
ぶんまなんでしゅくんば じんひと
天心てんしん認得にんとくすれば ふる
百派ひゃっぱ 紛紜ふんうん みだれていとごときも
千秋せんしゅう どう 一声いっせいじん
学文=文は、学問をいう。
認得=認識する。理解する。
天心=大自然の万物を運行させる天の意志。
百派=数多くの学派。
紛紜=乱れているさま。
千秋=千年に同じ。永遠に。
乱如線=線の如しは、通常は 『春秋公羊伝』 僖公四年に 「堪えざること線の如し」 とあるように、細く長く、どこまでも続く様子をいう語として用いられ、乱れているさまをいうには 「乱れて麻の如し」 もしくは 「乱れて糸の如し」 が普通である。ただ、ここは転句の句末に仄の字を必要としており、平声字の麻や糸は用いることができないため、あえて線に換えたのであろう。
仁=人への愛。天心が人において具現するのが仁だというのであろう。西郷が晩年、好んで 「敬天愛人」 という、愛人が仁にあたる。
学問は主体がなければ、いくら知識を得ても痴人に等しい。つまり、天の心を体得するのが大切で、それによって士気を奮い起こすことができる。
世間では各流派の学問があって、もつれた糸のように混乱の状態だが、いつの世にも変わらぬ天の心とは、ただ一言、仁ということである。
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ぐう   さく
渓水鮮澄避世譁

窓前窓後不看家

連山翠色偏宜夏

密樹清陰却勝花

閑暇幽居最相適

名魂利魄又何加

斯般游味無人識

旦暮涼風分外嘉

鮮澄=清らかに澄みきっていること。
世譁=世間のうるさいこと。都会の雑踏ばかりでなく、人の世の煩わしさも兼ねていうのであろう。
偏=格別に、ひたすら。 宜夏=夏にふさわしい、夏らしい。
密樹=密生する木々。  幽居=ひっそりと住む。わび住まい。
名魂利魄=名声を求め、利益を求める心。 
斯般=この種の。こにような。 游味=のんびりとした味わい。
分外=過分に。格別に。
渓水けいすい 鮮澄せんちょう 世譁せいか
窓前そうぜんそう いえ
連山れんざん翠色すいしょく ひとえになつよろしく
密樹みつじゅ清陰せいいん かえってはなまさ
かん 幽居ゆうきょ もっとかな
名魂めいこん  はく なんくわわらん
はんゆう ひと
たん涼風りょうふう 分外ぶんがい
谷川の流れは清らかに澄みきっていて、ここには世間のやかましさは何もない。窓から眺めてみると、前にも後ろにも人家が見えぬのだから。
緑の山なみはまことに夏らしさを感じ、生い茂った林のすずやかな木陰は、かえって花の季節よりも好ましい。
閑暇を得てひっそりと住まうには、ここは最も適わしい。名誉や利益をほしがるような思いが、ここでは生じるはずもない。
こうした悠々たる気分を、世間の連中は知るまい。朝と暮れに涼風が吹くおりなどは、とりわけ結構なものだ。
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朝鮮ちょうせん使つかいいするのめいこうむ
酷吏去来秋気清

鶏林城畔逐涼行

須比蘇武歳寒操

応擬真卿身後名

欲告不言遺子訓

雖離難忘旧朋盟

胡天紅葉凋零日

遥拝雲房霜剣横

酷しい夏の暑さも過ぎ去って、秋の気配が涼やかにただようようになった。このたび朝鮮の都までは、涼しさを追いかけての旅だ。
国の使者としては、いかに困難にあっても屈することのなかった漢の蘇武に、また、死をもって大義を顕した唐の顔真卿にみならわねばならない。
子どもたちに言い残しておきたいことは、なくもないが、もはや言うまい。遠く離れ去るとはいえ、旧友諸君との交誼は忘れがたい。
異国の空の下、紅く色づいた木々も葉を散らす頃、傍らには白くひかる鋭利な剣を横たえて、私は遠く祖国の宮城を遥拝していることだろう。
こく たって しゅうきよ
鶏林けいりん城畔じょうはん りょういて
すべからすべし  歳寒さいかんみさお
まさにすべし 真卿しんけい しん
げんとほつしてわず くん
はなるといえどわすがたし 旧朋きゅうほうめい
てん 紅葉こうよう 凋零ちょうれい
はるかに雲房うんぼうはい して 霜剣そうけんよこたう
酷吏=夏の酷暑を、むごい役人にたとえた言い方。 去来=去る。
鶏林城畔=朝鮮の都、京城のほとり。 鶏林は、新羅の古称。後には朝鮮全域の異称となる。
蘇武=前漢の武帝朝の人で、匈奴のもとに使者となって出かけたが、そのまま19年間抑留された。
匈奴は蘇武を降伏させようとしたが拒絶されたために、その死ぬことを願って気候峻烈な北辺の地に追いやった。
蘇武は厳しい生活のなかを漢への忠節を曲げずに生き抜き、ついに帰国することが出来た。
歳寒操=厳しい苦難をへて明らかになる節操。
真卿=唐の顔真卿。安緑山の乱にあたって平原 (山東省徳州市の東南) の太守をしており、山東一帯がすべて安緑山の勢力下に入った中で、常山 (河北省正定県) の太守であった従兄の顔杲卿と彼だけが従わず、義軍を組織して抵抗を続けた。
のち、朝廷で要職を歴任するが、節義正しく剛直の性格のため、たびかさねて左遷されている。
李希烈が淮西地域で反乱を起こした時、帰順を説得する使者として派遣されたが、そのまま三年間にわたって反乱軍に抑留監禁された後、賊手にかかって殺された。
身後名=死後の名声。その身の死によって世に知られる功名。    胡天=異国の空。
凋零=木々の葉が枯れしぼんで落ちること。人の死亡することにも用いられ、ここでは隆盛がかの地で死ぬことになるやも知れぬとの意を寓するか。
雲房=雲のたち込める中の家で、仙人の住まいをいう語。ここは借りて日本の天子の住まい、宮城をさす。
霜剣横=霜剣は、鋭利な剣。ここに剣が配されるのは、第五句に 「遺子の訓」 とあることとあわせ、隆盛が朝鮮での交渉に命を賭ける覚悟であることを言うのであろう。
明治6年 (1873) 初秋の作。47歳。
かねて幕末の頃から、朝鮮半島や満州地域と一体となって欧米列強のの圧力に対抗しなければならないとする考え方が、吉田松蔭、橋本左内等、多くの人々に広がっていた。
維新となって新政府は、朝鮮に王政復古を通達して新たな通交を求めたところ、当時大院君が実権を握って鎖国政策をとっていた朝鮮では、維新政府が欧米と結んで侵略を目論んでいるものと見なし、かたく拒絶してきた。
いっぽう日本国内でも、維新後に窮迫した旧武士階級の不平を外に向けて国内の人心をひとつにし、富国強兵の実現をめざそうとする木戸孝允らの主張が力を得るようになった。
明治6年 (1873) 岩倉具視、大久保利通らの欧米巡視の間、政府の留守を託されていた西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、福島種臣らは、いっきょに懸案の対朝鮮外交を打開しようと、隆盛の朝鮮派遣を決定し、なおも交渉不調の場合は征韓を実行にうつす考えであった。
隆盛はみずから遣韓大使となって命がけの交渉にあたる覚悟をさだめ、出発を待つ間に本詩が作られた。
ただし、廟議はこの時、隆盛の派遣をいったんは決めたが、岩倉、大久保等が帰国すると内政整備を第一に唱えて強硬に反対し、この年10月には遣韓使とり止めの裁可が下り、隆盛以下の下野となってゆく。
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