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以上、四種の曼荼羅は、互いに密接かつ微妙な関係にある。空海が 『即身成仏義』 において 「四種曼荼羅は各々離れずと云う」
と述べるが如くに、である。この件について、金岡秀友氏は、大曼荼羅・三昧曼荼羅・法曼荼羅・羯磨曼荼羅の順序に注目して、この配列が図像→持物→文字→彫像となっている点を指摘した上で、これを具象→象徴→抽象→事実よいう一連の流れと把握する見解を取る。つまり、宇宙そのものが、すでに真理の顕現に他ならないとの観点から出発し、それを仮に具象的に表現したのが大曼荼羅、次いで象徴化を進めて三昧耶曼荼羅に至り、さらに抽象の極みにたどりついて法曼荼羅となり、最後には象徴化も抽象化も意味を失い、再び現実の事物そのものが真理それ自体なのだ、という究竟の真理に到達したとするのである。これは、進化=深化でもあり、同時に限り無い円環運動でもあろう。
このことからも推しはかれるように、曼荼羅とは、あくまで密教修行のために造立されるものであり、密教が発明した宗教上の装置なのである。昨今の曼荼羅ブームでは、曼荼羅もまた一個の美術作品とみなされがちだが、それは曼荼羅の本来に意味を大きく踏み外していると言わざるを得ない。もっとも、密教の融通無碍な考え方からすると、それも密教へと人々を誘う方途かもしれないが。
これら曼荼羅の図像的な解説は、その種の書物がいくらも出ているので、ここでは触れない。ただし、図像化された曼荼羅の見方について一言しておきたい。簡単に言えば、曼荼羅を、それも長き星霜を経て変色しあるいは脱色してしまったものを、美術館の明るい照明のもとで見るなどは、曼荼羅の在り方からいって、愚の極みに過ぎない。曼荼羅が掲げられる状況を想像していただければお分かりだろうが、暗い堂の中で、護摩の燃え上がる炎と鼻をつく香煙に包まれながら、真言陀羅尼を唱えつつ、霊肉両面の疲労から半ば朦朧としながら眺めるのが曼荼羅のあるべき用法なのだ。
百歩譲っても、曼荼羅は煌々たる光に照らし出されるべきではない。むしろ、闇に鎖された空間において、わずかに護摩や燈明の揺れ動く炎に、一瞬照らし出されるべきなのである。その時、修行者は神秘の片鱗に触れることが出来るかも知れないのだ。だから、当然ながら、現代の平面的な照明では、曼荼羅は殆どその機能を発揮できない。要するに、曼荼羅は見えない、少なくとも、見えるのは瞬時、それが真実なのだ、と言ってよい。修行者の側の主体的な条件、そして曼荼羅と言う装置が本来に機能を発揮し得る状況の整備、それら二つが揃わない限り、密教の何たるか、は分からない。
最後に、曼荼羅に入る、という行為について、一言だけ述べておこう。今も曼荼羅は密教修行のための装置だとしたためたばかりだが、その修行とは、詰まるところ、曼荼羅の中に入ることに他ならない。この場合の入るとは、瑜伽
(ヨーガ) することである。すなわち、密教者は、観想の只中で曼荼羅の中に完全に没入してしまうのだ。そうしなければ、即身成仏の境地には至れない。
『金剛頂経』 は語る。密教者の目的は金剛界大曼荼羅に入ることだ、と。もちろん、その時の曼荼羅とは密教者の眼前に掛けられている現実の曼荼羅ではない。それは装置としての曼荼羅の彼方に幻視される、真理の顕現の現場としての曼荼羅なのだ。
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