しゅう
菅 原 道真
845 〜 903


じょう しょう としわた っていく たびからく

こん しょう もの れて ぜんかな

こえさむらく かぜ くのところ

どう あめ つのとき

きみしゅん じゅうしん ようや

おん涯岸がいがん むく ゆることおそ

らずこころ いずく にかあん せん

さけことまた えい

丞相度年幾樂思

今宵觸物自然悲

聲寒絡緯風吹處

葉落梧桐雨打時

君富春秋臣漸老

恩無涯岸報猶遅

不知此意何安慰

飲酒聽琴又詠詩


(通 釈)
私 (道真) は右大臣の職を拝し、年月を送り、幾度となく楽しい思いもいたしてまいりましたが、なぜか、今宵は折にふれ物にふれて、そぞろに哀れを催し、こうした御宴に侍っておりましても、気が滅入るばかりで、心が晴れないのでございます。
吹く風の中より聞こえてくる虫に音は冷ややかに胸に染み、そぼ降る雨に桐の葉の舞い落ちるのを見るのは、たまらなく寂しいものであります。
さて、陛下はいかにもお若くあらせられますが、それにひきかえ、私はこのところめっきり年をとりまして、気の弱まりを感じます。
御恩のほどは涯しないほどに広く、果たして存命中にお報い出来ますかどうか、はなはだ心細い限りでございまして、この憂苦の胸中は晴らそうとしても晴らす術とてない有様であります。
白楽天は憂悶を遣るてだてとして、三つのものを挙げておりますが、私もそれにならい、酒を飲み、琴を弾き、詩を詠じ、もって自らを慰めんと思う次第でございます。
○絡緯==絡糸娘ともいう。糸を紡ぐかのような聲で鳴くところからこう呼ぶ。日本の蟋蟀と思えばよい。
○涯岸==物事の限度。はて。<無涯岸> は果てしなく広大の意。


(解 説)
原題は 「九日後朝同賦秋思応制」 (九日後朝同に秋思を賦し制に応ず)
醍醐天皇の昌泰三年 (900) 九月十日の後宴で、群臣と共に勅題 (愁思) を賦し、その詔に応え奉ったもの
ちなみに、<応制> とは <応詔> ともいい、天子の命によって詩歌を作ることをいう。
道真はこの詩を作った翌年、大宰府に流されることになるのだが、それは神ならぬ身の知る由もなかったことであろう。
道真が翌年 (延喜元年) の九月十日の夜、大宰府で作った 『九月十日』 の詩と併せ鑑賞すると情緒がある。

(鑑 賞)
本詩は 「九月十日」 ほど著名ではないが、詩韻においては優れた作品である。
「九月十日」 の作中の <秋思詩編> は本篇を指すものであり、特に第五句 (君は春秋に富み) 、第六句 (恩は涯岸なく) の一聯は御感にあずかったもので、 『十訓抄』 は 「叡感のあまり御衣をぬぎてかつけさせ給ふ」 と述べている。 これが (恩賜御衣) である。まさに道真得意の絶頂期で」あったと思われる。
しかしながら (歓楽極まって哀情多し) の例にもれず、その胸中には払拭しようとしても、一抹の不安の影はいかにも消しがたいものがあった。
相した点からも、流謫の地、九州にあって、なお心を離れぬものがあったのであろう。
『日本紀略』 醍醐天皇昌泰三年九月十日の条に 「公宴、題云、愁思」 と見え、道真が 『菅家集』 『菅相公集』 『菅家文草』 のいわゆる三代集を奉ったのは、同年の八月十六日であった。
静謐な調べの中に、道真の誠忠が惻々と胸に迫ってくるように吟ずべきであろう。