敵将義仲は、どうも、まだ、越前
には来ていない。加賀かが までさえ、進撃して来た気ぶりはない。 昨今、彼のいる所は、越後の国府かと、想像される。 さきに、義仲は、一子義高を、鎌倉方へ質子ちし
として渡し、頼朝と和睦わぼく
したものの、なお頼朝の肚はら
を疑って、いつでも信濃平原に出られる備えのため、越後にとどまっているのではあるまいか。 ── とすれば。 先ごろ来、大挙上洛の風聞がしきりだったのは、虚説であるばかりでなく、木曾方の、意識的な牽制けんせい
であったかもしれない。 あるいは、義仲ならぬ麾下きか
の別動隊を 「── すわや、木曾殿の上洛軍」 と、驚き過あやま
って、誇大に伝えたのかも知れない。 いずれにせよ、義仲は、近くにいない。遠い越後にあるようだ。そこで、斎藤別当がすすめるところは、 (一日も早く、北陸道の要害、燧ひうち
ケ城じょう を抜き給え) というにあった。 燧ケ城は、橡とち
ノ木越えから東近江へ出る山道と、海ぞいの道の敦賀つるが
から若狭わかさ へ通う方面を結び合わせている北陸の関門である。 これを占むるものが、北陸を制しよう。 当然。 木曾に具眼の士があれば、疾と
くに、そこは抑えているはずだ。はや要塞化ようさいか
されているかも知れない。 だが、木曾の本軍は、遠くにあり、わが大軍をもって今、一押し攻めれば、必ず陥お
ちよう。要は、敵に援軍の日時をかさないことである。 (暖ゆる
きをもって、よしとする場合もあり、急を利とする時もあります。おまこそ、いかに急ぐとも、急ぎすぎるということはござりますまい) 実盛さねもり
がすすめるままに、通盛みちもり
や、清房らも、即座に、数千の兵を分けて、途中から燧ケ城の背後へ急がせたものであると、釈明した。 「いや、よう分かった。燧ケ城とは、そのような大事な要害か」 維盛は、国絵図を展ひろ
げさせて、さらに、この辺の地理に詳しい越中えっちゅう
次郎兵衛じろうびょうえ 盛嗣もりつぐ
やら飛騨判官ひだのほうがん 景高などの、つぶさな説明を聞き取り、いちいちいなずいた後、 「木曾は、たしかに、越前には、おるまいかのう。・・・・どうして、それが、確かだと、申しうるか」 と、清房に、糺ただ
した。 「されば、斎藤の別当は、こう申しまする。今日までの木曾が戦振いくさぶ
りをみても、ひとたび、駒を進むるや、破竹の勢いをなし、行くところまで行かねば止まらぬのが、木曾持ち前の戦癖いくさぐせ
。── もし義仲が動きおるものなれば、加賀、越前に、こう潜ひそ
まっているはずはない ── と」 「うム、道理だ。いかにも」 富士川のころと違い、維盛も近ごろは、人の説をよく聞いた。実盛の献策は、大いによしとして、次ぎの行動は、しべてその方針のもとに、評議された。 末席にいた実盛も、自分の言が用いられたことを知り、ひどくうれしそうだった。翁仮面おきなめん
のように相好そうごう をほころばせ、その後の酒盛りでは、いつになく、杯のかずを重ね、ひざをたたいて、ひとり何か微吟びぎん
などしていた。 |