〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/07 (月)  ひうち がつ せん (四)

── 翌晩。
対岸に最も接している盛俊の隠し陣に、一本の矢文が飛んで来た。
それによって、平家方では、どことどこに、水のせき や、防柵ぼうさく のしがらみが、構築されているかを知った。
「それっ、夜のうちに」
暗夜の中に、にわかな兵馬の活躍が見られ出した。
死水のような山間の水も、またにわかに、さざ波を立て、とうとうと揺れ始め、まるで、底が抜けたように、急激に減水を見せて来た。
せき を破ったあたりは、奔河の勢いで、水が落ちて行く。
「底の地肌じはだ が、見えて来たぞ」
「いざ、渡せ」
人馬は、なだれをなして、燧と、湯ノ尾の敵へ、駆け向かった。
無事と長陣に馴れて、木曾勢はまったく油断していたらしい。
騒ぎ立ったときは、もう遅かった。しかも、とりで の附近から、火の手が揚がっている。それも一ヶ所や二ヶ所でない。
「敵は、はや」
と、防戦の備えも立て得ず、惨として、われがちに、混乱し出した。
「やあ、たのみがいなき味方、がけ へのぞんで、大石を落せ、そこらの木々を、敵の頭上へ投げつけろ」
しきりに、浮き足の木曾勢を鼓舞していたのは、平泉寺の斎明だった。また、部下の僧兵だけだった。たれにせい、彼が、平家へ内応している者とは、疑いもしていない。
「斎明どの、無念だが、もうだめだ。ひと先ず落ちよう。── 匹田、林、稲津殿など、みな逃げた。犬死するな、斎明どの」
「やあ、富樫どのか、われらは去らぬ。先へ、お退きあれ」
「なんで、法師ばかり殿軍しんがり において、武者が退けようぞ。世の物笑い」
富樫泰家も、さいごまで、ふみ止まったが、今はと、血路を開いて、斎明法師の腕をつかみ、遮二しゃに 無二むに 、退き口へ連れ出した。
ぜひなく、斎明も、富樫党の落武者に入り交じって、武生方面へ、逃げ走った。先へのめって行く者、なお、あとから、あとから、あえ いで来る者、浅ましいほど命欲しげな敗軍の列は、日野川の流れるかぎり北へ北へ果てなくつづいた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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