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翌晩。 対岸に最も接している盛俊の隠し陣に、一本の矢文が飛んで来た。 それによって、平家方では、どことどこに、水の堰
や、防柵ぼうさく のしがらみが、構築されているかを知った。 「それっ、夜のうちに」 暗夜の中に、にわかな兵馬の活躍が見られ出した。 死水のような山間の水も、またにわかに、さざ波を立て、とうとうと揺れ始め、まるで、底が抜けたように、急激に減水を見せて来た。
堰せき を破ったあたりは、奔河の勢いで、水が落ちて行く。 「底の地肌じはだ
が、見えて来たぞ」 「いざ、渡せ」 人馬は、なだれをなして、燧と、湯ノ尾の敵へ、駆け向かった。 無事と長陣に馴れて、木曾勢はまったく油断していたらしい。 騒ぎ立ったときは、もう遅かった。しかも、砦とりで
の附近から、火の手が揚がっている。それも一ヶ所や二ヶ所でない。 「敵は、はや」 と、防戦の備えも立て得ず、惨として、われがちに、混乱し出した。 「やあ、たのみがいなき味方、崖がけ
へのぞんで、大石を落せ、そこらの木々を、敵の頭上へ投げつけろ」 しきりに、浮き足の木曾勢を鼓舞していたのは、平泉寺の斎明だった。また、部下の僧兵だけだった。たれにせい、彼が、平家へ内応している者とは、疑いもしていない。 「斎明どの、無念だが、もうだめだ。ひと先ず落ちよう。──
匹田、林、稲津殿など、みな逃げた。犬死するな、斎明どの」 「やあ、富樫どのか、われらは去らぬ。先へ、お退きあれ」 「なんで、法師ばかり殿軍しんがり
において、武者が退けようぞ。世の物笑い」 富樫泰家も、さいごまで、ふみ止まったが、今はと、血路を開いて、斎明法師の腕をつかみ、遮二しゃに
無二むに 、退き口へ連れ出した。 ぜひなく、斎明も、富樫党の落武者に入り交じって、武生方面へ、逃げ走った。先へのめって行く者、なお、あとから、あとから、喘あえ
いで来る者、浅ましいほど命欲しげな敗軍の列は、日野川の流れるかぎり北へ北へ果てなくつづいた。 |