いったん、燧
に敗れた木曾源氏の先遣隊は、支離滅裂となって、ついに、越前を捨てきるまでは、その逃げ足が止まらなかった。 事実、平軍の追撃も急だった。序戦の大捷たいしょう
ではあるし、数万騎を持つ怒涛どとう
である。誇りに誇ったものらしい。 しかし木曾勢とても、幾たびとなく、陣を立て直そうとはしたのだが、その都度、痛手を大きくするばかりだった。 特に、三条野で抵抗をこころみたときは、林六郎光明の子光平が、平家の斎藤実盛の手兵に討たれ、まったく、見るかげもない敗残の軍となってしまった。 「これ以上の戦いは、益もあるまい。ただ犬死を求めるだけのもの」 と、今は疲れきった口々で、 「いっそ、加賀、越中も放棄して、木曾殿のおわす越後まで落ち延びるのが得策」 と称える者が多かった。 けれど、加賀に入ると、さすが、平家の追迫ついはく
もやや遠ざかった。そして反対に新手の在郷源氏が、ぼつぼつ馳は
せ加わって来たので、ひとまず安宅あたか
ノ関せき 住吉の浜に、陣を結んだ。 が、ここでも、 「これしきの小勢では」 と危ぶむ声が高く、 「木曾殿の援けを待つか。越後国府まで立ち退の
くか。いずれにかせん」 と、士気は容易に一致しない。 すると、越中の住人石黒太郎光弘が、 「ばかなことを」 と、人びとの妄言もうげん
をあざ笑って、こう言い張った。 「越後へ参って、総大将のお旗本に付くまでも、この逃げ足と、ぶざまを持って、なんで、わが殿の前に、出られようか。たとえ、敵かな
わぬまでも、さいごまでは戦って、しかる後に、御本陣へもどるが、武者の道といくもの」 「石黒の太郎、よくいったり」 南保家隆、水巻安高、小太郎安経、富樫とがし
泰家やすいえ などは、主戦派であった。石黒光弘のこの言葉を支持して、遮二しゃに
無二むに 、抗戦の備えにかかった。 この辺りには、入江や沼が多い。大軍の敵には、すこぶる足場の悪い地方である。反対に小勢の味方には、安宅は、絶好な地形といえる。そこで、加賀、能登、越中の敗残の源氏は、橋を引き、楯たて
をならべて、梯川かけはしがわ
の北岸に、最後の一戦を賭か けていた。 平軍も、そのころ、越前の長畝ながうね
を発し、加賀の国へ、こみ入って来た。加賀の案内者は、例の平泉寺の斎明威儀師だ。 この裏切り法師は、いつか、平軍の中に立ち交じり、全軍の先頭にあって、つねに嚮導役きょうどうやく
を果たしていた風である。 |