〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/08 (火)  に ら み あ い (二)

五月二日。
平家勢の先頭は、はやくも、安宅附近にその影を現し始めた。しかし、後方の部隊は、なお小塩、橋立、黒崎、熊坂などの遠くにつづき、維盛、通盛などの本軍一万余騎は、篠原附近にあって、さかんなる兵站へいたん の煙をあげていた。
「平家勢の中に、斎明がいる」
北岸の陣地では、たれともなく言い出した。
「なに、斎明威儀師が?」
「さては、ひうち で裏切ったのも、きゃつではないか」
「八つ裂きにしてもあきたらぬ糞坊主くそぼうず 。今に見よ」
と、木曾方の源氏は、対岸の地勢を見て歩いている騎馬の法師武者を、それと察し、 「恥知らず」 と、ののしったり、 「犬めが」 と、弓をつがえてみたが、声も矢も届く川幅ではない。
そのうちに、斎明威儀師が、川面かわも を指して、平家の一将を、さしまねいていた。
「真夏の頃ともなれば、この辺りは、水も れて、川床かわどこ を見せる浅瀬あさせ 。── 今とて、おそらく、馬の脚の立つほどな深さしかありますまい。流れは急ばれど、攻め口は、ここただ一ヶ所」
と、地の利の智識を誇っている様子である。
平軍の攻勢は、その日に、始まった。
先頭は、主馬判官盛俊、飛騨守景家、小山田別当有重、上総介忠清などの各千余騎。
「斎明がいうなるぞ。攻め口は、ここ一所いっしょ 。盛綱もつづけ」
と、盛俊父子が、真っ先に、河へ馬を乗り入れると、北岸の陣には、猛然と弓鳴ゆな りが起こり、矢の雨が、人馬と水面をけむらせた。
この渡河戦に射浴びせられ、河中でおぼ れ死んだ平軍の士は三百といわれる。しかし、盛俊以下の将士は、かぶと のしころを伏せ、駒を対岸に乗り上げて、
「平家の内にも、盛俊あることを覚えておけ」
と、源氏の陣地を、駈け崩した。
石黒太郎光弘は、彼に向かって、闘いを挑みかけたが、盛俊の放った矢に、馬を射られてころげ落ち、あやうく、川の瀬で落命するところを、朗従に助けられ、乱軍の中へ引き退がった。
また、水巻安高以下の、父子と主従十騎ほどの一団も、平家の飛騨守景家の手勢につつまれて、すべて、討死をとげ、
「すわや、ここも終わりか」
と、乱れ立ち、たちまち、破陣の様相を呈した。
加賀の源氏、井家二郎いのいえじろう 範方のりかた は、一族十七騎で、根上ねあげまつ の辺で、斬り死にしてしまったし、富樫泰家、倉光成澄、福田二郎、千国太郎など、みな、ちりぢりに逃げ落ちた。
こうして、安宅の一塁も、難なく突破し、平家はやがて、その総軍勢を、富樫、拝師郷はやしごう (現、金沢市の西北郊) まで押し進めた。
富樫、林の二家は、加賀の名族である。長門本平家物語には、富樫泰家らは、ここの二城に って、さらに、第二段の抗戦を計ったとあるが、おそらく、それは城塁ではなく、ただの館であったろう。
また、これよりずっと後に。
この富樫泰家は、鎌倉幕下に随身して加賀の守護職となっている。文治三年、源義経や弁慶が、陸奥へ落ちて行く途中、 “安ノ宅関” でその主従を調べ、ただの山伏にあらずと知りながら、義経の一行を通してやったという 有名な 「関所問答」 の富樫左衛門尉は、この泰家なのである。
その泰家も、今は領土を失い、館を捨てて、いずこかへ落ちて行ったし、野々市、三馬郷みまごう犀川さいかわ の一帯まで、平家の軍馬を見ぬ尺地もないほどだった。
しかも、維盛、通盛などの平家の首将たちは、連戦連勝の勢いに乗って、
「このまま、倶梨伽羅くりから を越えて、越中を抑え、親不知おやしらずけんやく して、越後を制さん」
と、前進さらに前進をつづけた。
── というのは、すでに、越後国府の木曾義仲も、大挙して、報復の決戦に急いで来ると聞こえたので、彼より先に、越中越後の境を占拠する利を考えたからであった。
そして、維盛は、ここから都へ使いを立て、これまでの大捷たいしょう を、つぶさに一門の人びとへ らせてやった。
ところが、その大捷を報せた書面が、都へ着くか着かないうちに、次ぎのへん は、もう倶梨伽羅山の北に迫っていたのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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