見方の眼は、余一ひとりに集められた。 いや源氏だけではない。沖の平家方の船列も、いつか紅旗を立てならべた群影を一そう岸へ近々と寄せていた。そしてその船上にある無数の眸も、ここの汀
に立ち出た余一の影を遠くにとらえて、 「すわや、扇を射てみせんと、源氏の内から一騎、浜のなぎさへ進み出たぞ」 と、おそらく、鳴りをひそめているのではなかろうか。 ──
余一宗高はいま、味方の静かなどよめきの中を割って、牟礼むれ
の白砂にただ一騎立った。駒のたてがみに、風が少し見える。 彼は、かい抱いていた滋藤しげどう
の弓を、左手ゆんで にかまえて、二度三度、ブンと弦試つるだめ
しの空鳴そらな りを繰り返した。 ──
よし。 と思ったようである。 かぶとは脱いで、高紐たかひも
に (背へ) 懸けている。籠手こて
の緒お を締め直し、あぶみを踏み調べ、もいちど自陣の方をちらと振り向いた。中には弟が見える、義経がいる、友輩ともばら
がいる。あるいは、ふたたび生きて会えないかも知れないのだ。 「・・・・・さらば」 と、その顔は、さいごの決別わかれ
を告げているようであった。 やがて、きっと馬の首を沖へ向けて、自陣の人びとをその後ろ姿の後ろにおいた。 ── 駒はしずしず波打ち際へ歩を進めて行く。 だが馬は、渺びょう
とした海うな づらを前にすると、ひたと、水際にひづめを突っ張り、動く気色も見えなかった。馬が急に耳を伏せるのは馬の恐怖か倦厭けんえん
の表情である。 「・・・・・・」 余一は、右の手をさしのべて、子をあやすように、馬のどこかを軽くたたいている。 そして手綱をめぐらし、いちど汀なぎさ
から離れ、チ、チ、チ、チと唇くちびる
を鳴らしつつ、浜のかなたからこなたを地乗りして巡った。 馬の機嫌を直してから、余一はぐたたび水際へ向けて前と同じ姿勢をとった。 馬は鞍上あんじょう
のひとのただならぬ意志を知ったようである。余一の踵かかと
が馬腹を蹴った。ざっと白い泡沫ほうまつ
が花と咲いて左右へ潮のうねりを描いてゆく。── すでにその影は岸を離れ、浅瀬を駈け、やがて鞍くら
の辺まで潮に浸ひた し、悠々ゆうゆう
と泳ぎ出ていたのである。 夕雲が美しかった。 真っ赤か
な日輪を弄もてあそ ぶ雲の裳も
や袖だった。雲が陽を隠しきると、雲の縁ふち
はみな紫ばみ、海うな づらも燦々さんさん
の波映はえい を消して、いちばん深い色に変わる。 べつの一扇いっせん
の日の丸が、波間の小舟の上にあった。 玉虫は、その的まと
の下に、立っている。彼女の眸がどんな感をこめていたのかは分からない。ただその柳色の五衣いつつぎぬ
、緋ひ の袴、白い顔が、小さく鮮あざ
らかに望めるだけだった。 潮は今、満ち潮のさかりごろか、屋島の岸の水位は上がっていた。余一の影は、鞍腰くらごし
まで水に浸ひた り、駒はしきりに平頸?ひらくび
を振り擡?もた げている。 おりおり、たたみ寄せてくる沖波が、その影に白いしぶきをぶつけた。いぶきは責め馬のムチでもあった。駒も必死に紺をかき分けて行く。すでに扇の小舟をさしてだいぶ近づいた。──
矢頃やごろ (距離)
もよしと見たのであろうか。余一の右手?めて
は、えびらの鏑矢?かぶらや を一筋抜いた。そして、かっきと弓に加え、矢と弓とを十字につがえて翳かざ
すが如く眉より高く持った。矢バネを潮に濡らさないためであろう。 ── それまで、ただ、かたずをのんだまま寂せき
としていた陸くが の源氏三百余騎は、 「・・・・あっ」 たれからともない大きな全体の揺れを見せ、 「まだ、早い」 と口走り、われを忘れて、 「余一どの、余一どの、矢頃は遠すぎるぞ」 「もう一段も二段も、沖へ馬をすすませて射給え、もそっと、馬を乗り入れよ」 と、叫びあった。昔の一段とは、今の六間のことである。 しかし、聞こえるはずはない。 その声ばかりでなく、天地の物音、すべて、余一の耳の外であった。
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