いくたびか、矢筈
へ指をかけてみては、 「ああ、いけない」 と、余一は思いとまった。 的まと
の象かたち は、かなたの小舟の上にある物だが、しかし、ほんとの的は、自分の胸の中心にある。 ──
もし、射損じたらという雑念ぞうねん
が、容易に追い退の けきれないのだった。それは、体のどこかを硬めている。不自然なものにしている。 海陸の敵味方数千が、鳴りをひそめて、自分の一点を見すましているという意識も邪魔であった。しいて
「── 無我にならん」 とするそれさえも、すでに雑念の一つだった。純粋な無我ではない。 こうして、心に的さえ、なかなかさだまらないうえに、漾々ようよう
と揺れやまない海うな づらは眼と平行線にある感じに近く、思いのほか風さえあって、波に乗せられている自分、波間に揺れ動いているかなたの小舟の扇。ともすれば、幻覚にとらわれやすい。 「あせっては成らじ」 と、余一は自分へ言った。それはもう自己への敗北感に近い、ともすれば、視覚すらも乱れてしまう。 視覚の定まらないのは、夕陽と波映のせいだった。ふと厚い雲の膜まく
にそれが隠れた。 一瞬いっとき
、海は青い夜みたいな沈みを呈した。それは、一たん矢つがえを休めて、余一が、駒を屋島の方へ向けて泳がせてゆき、また、馬首を回めぐ
らしつつ引っ返して来たときだった。 なんとはなく、余一の胸に 「今だ」 という直感が走った。 ── とともに、何か、吹きぬかれたような、すがすがしさとともに、身のうちから、
「南無なむ 八幡はちまん
大菩薩だいぼさつ 」 と、自然に口へ出、つづいて、 「年々、奉射ぶしゃ
し奉りたる香取の神、もし今もって、迷吾めいご
を抜けぬわが弓ならば、矢を海中へ折り捨てて余一宗高に死を降くだ
し給え。またもし、少年の日より、年ごとの奉射ぶしゃ
を怠らざるの効か い、今日にあらしめ給うなれば、あの扇の真ん中に、余一の矢を射い
当あ てさせ給え。── あわれ、ふるさとの那須なす
ノ湯泉ゆぜん 大明神だいみょうじん
、亡き父上や母たちも護りてよ」 と、祈念きねん
するともなく、念じていた。 引きしぼられた弓は、満まん
を描いた。矢柄やがら は冷ひ
やっこく彼の右の眦まなじり を撫な
でて眼なりに通って行き、その矢バネは深々と耳のうしろまで引かれていた。 が、まだ放たず、余一は狙ねら
いをすましたままだった。扇との距離は七、八段だん
、矢頃と思われた。それはまた当る気がした。なぜか素直な中にそんな暗示がふと心をかすめたのである。 キ、キ、と弓が哭な
いた。弦つる も折れるかと見えたせつな、ぶんっと、弓返ゆがえ
りして、矢は離れていた。あの異様な唸うな
りをふくむ鏑矢かぶらや なのだ。長鳴りをひいて飛んで行った。 当った。 かなめ際にでも当ったのか、矢は、なお飛んで先の方へ消えたが、扇は弾はじ
かれたように空へ揚がり、そして、翻々ほんぽん
と、裏を見せ表を見せつつ、波間へ落ちた。 「・・・・・、・・・・・」 おそらく、ひそかな予想では、たれの思いも当っていなかったに相違ない。一瞬は声もない空間だった。ただ、ぽかんと、飛扇ひせん
のひらめきに魂を抜かれたかたちであった。 が、われに返ると、 「あっ、射たわ」 「射たり!」 と、敵味方もなく暴風のような歓呼を揚げた。それは暮れかかる海づらに海彦うみびこ
を呼んだ。 “── 沖には平家、舷ふなばた
をたたいて感じたり、陸くが には源氏、箙えびら
を叩たた いてどよめきけり” とは、古くから平曲を語り伝えた琵琶びわ
法師ほうし が好んで撥ばち
を弄ろう すところであった。
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