すぐ弓を小脇
に持ち直すと、余一は、鞍腰くらごし
を浮かせて馬を楽にしてやり、手を伸ばして、馬の平頸ひらくび
を撫でてやった。 うれしさを、馬にも頒わか
っている姿である。 そして、しばらく馬にまかせて波間に游あそ
び、やがて元の汀なぎさ へ泳ぎ向かって来るうちに、彼の頬を、一すじの涙が白く垂れていた。 ──
自分が射たとは思えない。 何かが自分の弓に宿ってしたことのように思われる。でなければ、せつな、あんな静かなものに心が吹き抜かれるはずがない。mた、矢が弦つる
を離れるか否かのときに、すでに当ったという予感を持てたわけがない。 「ふしぎさよ、ありがたさよ・・・・」 自分を吹きくるむ喝采かっさい
とは逆に、彼は彼ひとりの別な感激に涙が止まらなかった。 ── と、味方の岸もまぢかと見えたとき、むらがりを割って出て来た伊勢三郎義盛が、 「やあ、余一どの、事のついでぞ。引っ返して、あの小憎い老武者をも、射てしまえ」 と、指さしつつ、どなった。 余一は、さっきの小舟を振り向いた。もう玉虫の姿は見えない。ただ一人、例の剽気者ひょうげもの
らしい老武者が、白木の薙刀なぎなた
を振りまわし、小舟の上で舞ぬいていた。余一の弓の妙技に感じ、敵なることも忘れて 「仕し
たりや、仕たり」 と、興に浮かれている様子なのだ。 「あれをも、射よと仰せあるか」 余一は、やや不服そうだった。 「・・・・罪な」 と思われたに違いない。 伊勢三郎は、押お
っかぶせるように、 「御諚ごじょう
であるぞ」 と、一だん声を励ました。 余一は、黙って、馬を回かえ
した。 そして再び小舟の方へ向かって行き、今度はただの征矢そや
をつがえてパッと射た。舞っていた剽気者の十郎兵衛家員いえかず
の影が、くるくるっと、舟底にころがった。 舷ふなべり
たたいて、敵を称たた えていた平家も、それを見ると、急に、ひそまり返ってしまった。 陸くが
の源氏は、二度のどよめきを揚げながら、 「── ああ、射た」 と、賞讃してやまない者、あるいは、 「いや、いや、情なさ
けなし」 と、ひそかにつぶやく者もあった。 その二の矢も果たして、義経の命であったかどうか。なにしろ、源氏の陣は、有頂天だった。各人の思い上がりも見えなくはない。やがて、水を切って汀なぎさ
から上がって来た余一の姿に、それは一そうな騒ぎになって、拍手乱舞、万雷のような声で彼をつつんだ。 しかし余一は、どこか浮かない容子だった。その顔はやや青白くさえ見えた。人びとはそれを無理もない疲労とながめた。 彼は、義経の前で賞辞を受けた。そして
「休息せよ」 と言われたのであろう。やがて後陣の方へ退さが
って行った。敵味方の賞讃をあび、あれほどな名誉をかちえた剋か
ち得ながら、その姿は、狂喜するでもなく、誇りがましい影もない。 「淋しそうな。・・・・なぜ兄上は、淋しそうにしているのか?」 大八郎は、兄の容子を気づかった。そして後陣へ退った余一のあとを追って行った。 |