義経は、どの舟かに、能登守教経のあることを察していた。 「午
には、われこそ逃げたり。今は、われより寄って、教経のりつね
の胆きも 冷やさせん」 と、馬を泳がせていたのである。 そして、潮うしお
の中に、彼の下知する声を知った。 「── いで、会うわん」 と思うほくそ笑みが、波揺らぎとひとつに彼の頬へのぼった。 すでに夕星ゆうずつ
が仰がれる。屋島の蔭はもう夜だ。海は濃藍のうらん
といってもまだ足りない。波光だけが、、の、たそがれの明るさをもっている。義経は、群小の敵を捨てて、一そう大船へ向かって馬をすすませた。 だが、逸早く、敵も彼の姿を、義経と見たに違いない。櫓ろ
を押し、みよしを回かえ し、彼の前へむらがって来た。 そして、鈎かぎ
を投げ、熊手くまで を伸ばして、彼の姿一つをよい獲物えもの
と、攻め争った。 「や、や。あれやわが殿ぞ」 「危うい深入り」 うあかと、自分自分の気を取られていた源氏の面々は、それと見て、みな馬を向けかえ、義経の急を、助けに寄った。 鈎かぎ
、熊手の爪つめ は、何度、義経のかぶとの鍬形くわがた
やその錣しころ に危険な音をカラカラ立てては運よく外はず
れたことか分からない。そのすきに取り落としていたのであろう。義経の弓は、彼の弓手ゆんで
を離れて、波間に漂い出していた。 味方の面々が近づいてみると、彼はそれさえ見向かずに、鞭鞭むち
を伸ばして、流れる弓を鞍くら
わきへかき寄せようとしているのだった。 余りにも悠々ゆうゆう
たるその姿に、 「や、や、殿。なんで弓などを」 「捨ておかせ給え、そのままに」 「波のままに──」 と、みな叫んだ。 けれど、義経はやめなかった。やがて弓を波間から拾い上げて、元の小脇こわき
に持った。 すでに海面はとっぷり暗い。加勢が来たと見てか、辺りの敵も沖へ漕ぎ散っている。源氏の軍勢も、水しずくを切って、みな岸へ上がった。 とともに、主だった面々は、すぐ義経を取り囲んで、 「たとえ、重代のおん弓にせよ、たかが弓一張ひとはり
りではおざりまさえぬか。まちがえば、おん命をも失いましょう。今日に限って、解げ
せぬお振舞い。以後は、おん大将も身たること、ゆめお忘れくださいますな」 と、口をそろえて諌言かんげん
した。 すると、義経は、 「いや、和殿わどの
たちの、思い違いぞ」 と、それに答えた。 彼の言うには。 弓が惜しいためではない、平家の手の拾われて、 「これが義経の弓か」 と言われては辱は
ずかしい。なぜならば、自分は好んで弱弓よわゆみ
を使う。大将には強弓はいらないからだ。しかし武門の慣なら
わし、敵は 「九郎とは、こんな弱弓しか引けぬ大将か」 と、見せまわして嘲弄ちょうろう
の具にするであろう。そしていよいよ、源氏への戦腰いくさごし
を強めるに違いない。── さればこそ、少々危険は感じたが、拾い取って帰ったのだと、笑って言った。 「さては、そうしたお心であったるか」 と、なまじな諌言を人びとはかえって恥じた。そして、その夜の陣中の夜話に語りつたえた。 ひとまず退いた陣地は、雨龍うりゆう
(瓜生) ノ岡おか
であった。牟礼からすこし東南寄りの高地である。視野も広い。 要所要所に哨兵しょうへい
を立て、また交代で夜もすがら松明たいまつ
を振って巡視させた。敵に夜襲を思い立たせないためにである。 しかし彼は、一夜の露営をさだめると、思わず 「ああ、疲れた」 とつぶやきたかった。かえりみると、夕べ
── 二月十九日の夜半前 ── 大坂越えの下から長尾道を駈け続け、明け方、古高松へ火を放ってより、息つく間もない終日の合戦だった。 「われすらこうぞ。人びとは疲れつらん。こよいは深々と草のしとねに寝よ。あすの戦いに、疲れを残すな」 こう宥いたわ
って、彼も寝たが、おりおり、手枕から身をもたげた。深夜のしじまに耳を澄まし、寝つ起きつの姿であった。 「もし、敵が夜討を計はか
り、ここに急に襲おそ うて来たら」 それは、肌も寒くなる空想だった。いや空想とは言い切れない。 渡辺ノ津を船出して以来、馬も人も疲れ切っている。ひとたび臥ふ
した将士は、蹴られても目覚めそうな寝姿ではなかった。平家は地の理にも通じている。いつ、どんな所から、闇を破って来ないとも限らない。 夕べ見た夜半の月が、今夜もある。 ふもとの哨兵しょうへい
が、よく任務についているかどうか、それも彼の気がかりだった。義経はただ一人で、そっと、陣地の見まわりに出た。 ── と、どこから紛まぎ
れ込んだものだろうか。岡おか
の小道の岩蔭に屈かが まり、義経の姿を知ると、首をさし伸ばして、這い出した男がある。 黒革くろかわ
の腹巻はらまき に、太刀のこじりをはね上げ、鉢兜はちかぶと
も被っていない。ただの雑兵といってもいい服装だ。しかし、どこかに剛気なものが全身を隈くま
どってい、年は三十がらみ、顔は、源氏の内では見たことのない顔である。そして手には弓を持ち、すでに矢をつがえていた。 |