曲者
は、代え矢を持っていない様子だった。射損じたらそれ限りである。もっとも、その場合は、二の矢をつがえるひまなどはおそらく与えられないだろう。どっしみち彼はm「ただ一矢で、相手を倒すか自分の死か、一念なものも、賭か
けているに相違ない。 ── 先を行く義経は、それに気づかない様子であった。 ここの岡全体が、露営地だし。いわば味方ばかりの中である。そんな曲者が入り込んでいようとは、夢にも思えなかったことであろう。 とのかく、それから数歩の間に、義経は異様な短い人声を背後で聞いた。 ぴゅんと、弦音つるおと
も、一しょであった。 しかし、矢は、彼の影とはおよそ見当違な方へ逸そ
れてゆき、はっと振り向いたとき、かなたでは、二つの人影が、猛烈な素手の格闘を見せていた。 「やっ、何者ぞ?」 義経が駈け寄る間に、そこでの格闘は、勝敗がついていた。曲者を組み伏せたと見える上の者の影が、 「弁慶でござりまする」
と、聞き馴れた、いつもの声ですぐ答え ── 「かくの如く、敵の刺客しかく
が近づき奉る惧おそ れもあるに、殿には、なんでただお一人、われら近習を捨ておいて深夜をお歩きなされますや」 と、その軽率な行為に、腹を立てているらしい口吻こうふん
だった。 「いや、みなの疲れははなはだしい。さだめし、お汝こと
らも眠かろうと思い、わざと一人陣見まわりに出ていたのだ。悪しゅう思うな、弁慶」 「いつもながら、ありがたいお胸なれど、万一にも、このような不敵者のために、御一命を失い給うようなことでもあったら、なんといたしまするぞ」 「では、それなる者は、義経の一命を狙ねら
い寄った裏切りか」 「いや、お味方の内では、ついぞ見ぬ面構つらがま
え、平家の刺客にちがいございませぬ」 言いながら、下の顔をのぞきこむと、男は無念そうに顔をそむけた。そして、なお足技あしわざ
でも思うのか、しきりに踵かかと
を動かした。 「まだ足掻あが
くか、往生際の悪いやつ」 弁慶は、締め付けている一方の手を離して、 「面つら
を見せい、しゃつ面を」 と、男の耳の根をねじ切るほど引っ張った。 「やあ、手荒をすな、弁慶」 義経は止めて、 「平家武者たりとも、中にはかかる凄すさ
まじき剛ごう の者もいると見える。敵ながら、けなげな者よ。ただ縛いまし
めにかけて、わしの幕舎とばり
までひいて来い」 と、いいつけた。 弁慶は、舌打ちして言った。 「あら、歯がゆき殿の仰せかな。もし弁慶が、ひそかな殿のお出ましに目ざめず、そして、この曲者を見つけずば、すんでにお命も危うかりしに、なんで、人なみなお情けまどをかけ給うか」 不承不承に、男をくくり上げて、 「ええ、歩けっ」 と、なお酷むご
く男へ当った。 男は大地にすわり直した。そして、動こうともしないのだ。弁慶の姿を、睨ね
め上げて、 「歩かん、歩く用はない。わしの首さえ斬れば、すむことだろう。ここで斬れっ」 と、烈しく言った。 「なに」 弁慶が怒って、その弱腰へ、足をあげかけたのを見、義経はまたしかった。義経は、明らかにもう捨てばちな男の形相へ、依然、穏やかな言葉で言った。 「死にたくば、自身の手で、ゆるやかに自害し給え。おたがいは、もののふ。人の死までを辱はずかし
めはせぬ。ともあれ、義経の幕舎とばり
まで、歩いて後のことにしてはどうか」 「・・・・・? よし 歩いてやる」 男は、傲然ごうぜん
と起って、歩き出した。 |