義経の幕舎
は岡の上にある。 そこまで、ひかれて行く間に、男は命が惜しくなって来たのだろうか。 あるいは、義経という人間に直接触れて、何か、思いのほかなものを感じ、すべてを自白する心境になったのかもわからない。 とにかく、そこへ来ると、彼の不敵な面構えも、急にどこか打ち悄しお
れてみえた。容易に口を開くまいと思われていたのが、義経の質問には、案外、素直に、 「── されば、お訊たず
ねのごとく、自分も平家の一人なれど、屋島にたてこもった一門の端ではない。申さば境外の平家筋、田舎豪族と申すべきか」 と、自嘲じちょう
をうかべ、うそぶくように、自若として、答え出した。 「して、生国は」 「阿波の者でござる」 「阿波とな」 「いかにも」 彼は、義経のキラと射る眼を感じると、何か、意味ありげな微笑を滲み出して、 「──
こう、対面するのは今が初めてなれど、判官ほうがん
どのの兵馬とは、すでに先ごろお目にかかっておる。それもつい一昨日のこと、十八日の明け方」 「やっ?」 義経は、男の面つら
だましいを、一そう凝視して、 「では、なんじは、その朝、義経の兵に不意を襲われ、桜間さくらま
ノ舘たち を一瞬に亡うしの
うて、身は乱軍の中を、いずこともなく落ち去った舘たち
の留守居 ── 桜間さくらま
ノ介すけ 能遠よしとお
ではないのか」 と、床几しょうぎ
から身を乗り出して訊たず ねた。 男は、瞑目めいもく
したきり、しばらく答えようとしない。辛酸しんさん
の垢あか にまみれた頬骨を、遠篝とおかが
りの明りに見せて、天を仰いだままだった。 が、やがて、つぶやくように、 「お察しの者に相違ない」 と、首を垂れ、 「── 阿波民部あわのみんぶ
重能しげよし の弟、桜間ノ介能遠とは、かくいう自分のことでおざるが、あら恥ずかし、かかる縄目なわめ
に会って、宿敵九郎どのの前に引き据えられんとは。・・・・もはや、なんの望みもない。武士の情けよ。ただこの首を刎は
ね落し給え」 「さてこそ」 義経は、ふかくうばずいて。 「桜間ノ舘たち
に破れたを無念に思うて、単身、義経に近づき、そのおりの辱はじ
をそそごうとの心であったか」 「言うまでもなかろう。── 兄の民部は、早くより平家に参さん
じて、長門国にあり、甥おい の田口たぐち
教能のりよし もまた、屋島より伊予攻めに出で、阿波の留守は、この桜間ノ介に、任されていたものを」 「あわれ、もののふ。無念さは思いやらるる。したが、辱を忍んで落ちのびて来たほどならば、なぜ、屋島の人びとと力を協あわ
せ、堂々たる旗の下に、源氏へ当って先の名折れを取り返そうとはしないのか。ただ一人にて、義経を狙うなどは、およそ思慮なき匹夫ひっぷ
の勇。そちほどな侍に、似合わぬことではないか」 「いや、いちどは、屋島に入って、内大臣おおい
の殿との や諸大将と、陣所をともにいたしたが、ちと仔細しさい
もあって」 「仔細とは」 「これも、身の不覚が招いたことうえ、人を恨むにはあらねど、大勢の味方の中で、内大臣おおい
の殿との より、あらぬお疑いをかけられ、辱のうえに、重ね重ね、あか辱をかかせられた。・・・・いや、そのようなことは、愚痴にすぎぬ。ここで言うべきことではなかった。いざ、成敗を急がれい。首になって、何もかも忘れ果てたい」 と、桜間ノ介は、すわり直した。覚悟しきっている姿である。
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