〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
浮
(
うき
)
巣
(
す
)
の 巻
2014/03/31 (月)
教
(
のり
)
経
(
つね
)
・
哭
(
な
)
き
嘲
(
わら
)
い (三)
牟礼
(
むれ
)
から
香東川
(
ごとうがわ
)
までは、わずか三里たらずでしかない。
屋島の西方の
八輪島
(
はちりんじま
)
(現・高松市)
の
磯
(
いそ
)
を駈け、
石清水八幡
(
いわしみずはちまん
)
のある宮わきまで来ると、もうその辺の土民のうわさにも、
「
大戦
(
おおいくさ
)
ぞ、この辺りも、おぼつかないぞ」
と、
恟々
(
きょうきょう
)
たるものがみえる。
桜間ノ介たち十騎は、そこの八幡宮前で
駒
(
こま
)
を止め、おのおの、汗をぬぐいながら、
「物を
訊
(
き
)
こうと思うが、われらの影を見てさえ、みな逃げおる。たれか、
土地
(
ところ
)
の者を、とらえて来ぬか」
と、かえりみ合った。
土肥実平の子息遠平が、すぐどこかへ走って行って、
村長
(
むらおさ
)
らしい男を
拉
(
らつ
)
して来た。
その者に
質
(
ただ
)
すと。
伊予から引き揚げて来たたくさんな軍勢は、まだ香東川を渡っていない。
弦打
(
つるうち
)
とよぶ部落の対岸にとどまっている。これからさらに西へ行って小高い所に立つと、
上流
(
かみ
)
の河原に、おびただしい軍馬やら野営の煙を見るであろう、ということだった。
「さらば、まもなく行き会おう」
桜間ノ介は、先に立ち、なお二里余り、駒を飛ばした。
ちょうど、平家の三千余騎が、
新居
(
にい
)
河原
(
がわら
)
を
渉
(
わた
)
って、
鬼無
(
きなし
)
、
弦打
(
つるうち
)
の部落へかかって来た時であった。
先鋒
(
せんぽう
)
の兵は、十騎の影をみとめると、 「すわ」 といったような殺気をしめし、一せいに
弓構
(
ゆもがま
)
えを取った。
「── やあ、待ち給え」
桜間ノ介は、一人、馬を前にすすめて、
「これは、阿波民部の弟、桜間ノ介でおざる。さ申せば、おうなずきあらんも、この軍の大将
田口
(
たぐち
)
左衛門
(
さえもん
)
教能
(
のりよし
)
どのとは、
叔父
(
おじ
)
甥
(
おい
)
の仲 ── おり入って、甥の
教能
(
のりよし
)
どのに会い申したく、わざと、
弓物具
(
ゆみもののぐ
)
を
外
(
はず
)
して、これへ参って候う。しばし、軍勢をとどめられよ」
と、
大音
(
だいおん
)
で言った。
どこかその声には、必死なものがこもっている。
また、言うが如く、
弓箭
(
きゅうぜん
)
も帯びていないし、
甲冑
(
かっちゅう
)
もつけていない。
ことにまた、大将
教能
(
のりよし
)
の叔父と聞いたので、兵たちは、すぐその由を、中軍の
教能
(
のりよし
)
へ取次いだ。
まもなく、
教能
(
のりよし
)
のそばから、 「しばし、進軍をやめ、次に令を待て」 という触れが出た。
その朝、三千余騎といわれる新鮮な気負いをもった平軍は、もう
幾刻
(
いくとき
)
かの後には、源氏の東国武者と、弓矢の間に相会う覚悟でいたのはいうまでもない。
だから、時ならぬ休息には、
「今日の出ばなに」
と、みな落ち着かない態だったし、しかも、それが
一刻
(
いっとき
)
(二時間)
以上にわたってもなお、前進命令の模様がないので、
「・・・・はて、何事のあって?」
と、ようやくみな不審を抱いていた。
もちろん、その間に、田口
教能
(
のりよし
)
と桜間ノ介との会見は、運ばれていたのである。附近の森蔭に見える古い六角堂がその場所だった。
粗末な
堂宇
(
どうう
)
と
階
(
かい
)
を
繞
(
めぐ
)
って、一方には、桜間ノ介について来た土肥実平以下、一方には、田口
教能
(
のりよし
)
の部下たちが、ぎっしり、控え合っていた。
御堂の
扉
(
とびら
)
は、閉っている。
内に入ったのは、教能と桜間ノ介の、二人だけだった。
もとより声も気配ももれては来ない。
外も外であった。相互、異様なまでの緊張をもちあい、何か、鬼気をすら漂わせていた。
── それが
二刻
(
ふたとき
)
近くにもなった。余りに長い。
「土肥実平はひそかに 「・・・・もしや?」 と、不吉な想像さえ描いて 「どう
説
(
と
)
いても、教能が
肯
(
き
)
かぬため、その場を去らせず、桜間ノ介が手をくだして、二人とも、刺し違えて死んでいるのではないか」 と、疑い出したほどだった。
が、そうでもなかった。
やがて二人は、内から
扉
(
と
)
を開き、肩を並べてそこへ立ち現われた。
「・・・・・・」
見れば、教能の顔、桜間ノ介の顔、どっちも、すさまじい心の色を沈めてい、そのうえ
腫
(
は
)
れぼったい涙の
痕
(
あと
)
をもっていた。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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