〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/02 (水) のり つねわら い (五)

その日、二十一日のひつじこく (午後二時) には、もう雨龍うりゅうおか へ、
“── 談合、あい 調ととの うて候う”
という吉報を持った一騎が早くも帰って来た。
いかに義経が、ほっとしたかは、いうまでもない。どう誇張しても、そのおりの彼のよろこびを言い現すには足りない。
しかし、およそおなじぐらいな早さで、そのことは、平家の耳にも伝わっていた。
田口勢の多くの者のうちには、解軍とともに、ばらばらではあったが、小舟や馬などで、
「たとえ、修羅しゅら の鬼ともなれ、この に、御一門の人びとと離れられようか」
と、志度へ駈けつけて来た面々も、決して少なくはなかったのである。
宗盛以下、平家の人びとは、泣く泣く訴えて来たそれらの者の口から、
「田口殿は、源氏に降り、総勢は、群を解いて、ちりぢりになり申した」
と聞いて、これまた、どんなに愕然がくぜん たる失望の底につき落とされたことだろうか。
そのうえにも、なお、平家方には、悪いことが重なって聞こえて来た。
田辺湛増たなべのたんぞう の水軍やら、渡辺わたなべ にあった源氏の水軍が、義経の先駆よりはるか遅れていたが、ようやく、軸艫じくろ をそろえて、それらの船影も、北方の海上から、徐々に、近づいて来つつあるという島々からの諜報ちょうほう だった。
「さても・・・・無念だが」
教経は、すぐくが の軍勢に、引き揚げを命じ、
「ここにいては、こんどこそ、海の上とて安全ではない。このうえは長門へくだ って、権中納言 (知盛) どのの手勢と一つになろう」
その夕べ、三百余艘、帆影をそろえて、讃岐さぬき の海を後に出て行った。
うな づらも空も夕焼けに燃えていた。
虹色にじいろ の屋島の影を振り向いて、能登守教経は、船やぐらの上に、ただ一人、泣き笑いとも自嘲じちょう ともつかないうそぶ きをもらしていた。
「おもしろい、おもしろいほど、事ごとに食い違ってくる。不運とは、こうしたものか。どこまで、人と運が、もつれあうか、もてあそばれて行くものか、あまんじて不運と闘ってみるのもたの しくないことはない。どうせ落ち目の運命ならば、この落日らくじつ のように、荘厳そうごん でありたいものだ。せめて平家の末路は荘厳に ──」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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