この北海道出身者をもって構成されている第七師団の師団長は、薩摩人大迫尚敏
であった。当時中将で、のち大将。 ついでなからこの大迫の弟尚道なおみち
は兄より十歳下で、志願学校の第二期生で、秋山好古より一期上であった。いま少将で、奥軍の幕僚になっている。 兄の尚敏はべつに正規の教育は受けておらず、薩摩藩士としての武士教育を受けたに過ぎなき。この点、旧藩武士上がりの軍司令官級とおなじであった。 明治帝には、人物の好みがあって、西郷隆盛や山岡鉄舟、乃木
希典という木強ぼっきょう 武士肌の人物が好きで、山県有朋のような策謀家はきらいだったらしい。大迫尚敏は西郷もしくは山岡のにおいを持っている人物で、彼が大佐で近衛歩兵第一連隊長をつとめていたころ、帝に知られ、ひどく愛せられた。 といっても、日本の天皇制はロシアの皇帝制とは違い、天皇自身に独裁権はない。 政治と軍事はすべて内閣と参謀本部
(海軍は軍令部) が判断し、執行するという 「輔弼ほひつ
」 制度で、天皇はただ存在しているというところに意味があった。だから大迫尚敏を明治帝が愛した、といってもニコライ二世と寵臣の関係とは質的には違っており、いわば人間として、 「あの男はおもしろい男だ」 と、帝は面白がっていたという意味である。もっとも帝に独裁権がないといってもきわめてまれに、内閣は帝の判断を乞うことがある。このたぐいのことは、 ──
天皇に責任を負わせる結果になり、内閣としては輔弼の責任を全まつと
うする道ではない。 と言うことで、きわめて好ましからざることとされていた。たとえば旅順の乃木が、 ── 第八師団を送ってくれ。 と言って来たとき、大本営は乃木軍司令部の無能さに恐れをなし、これを旅順に送るよりも平野決戦用として送ろうとした。が、乃木軍の請願をむげに退けるわけにもいかず、結局
「聖断」 を乞おうとした。参謀総長山県有朋の策であった。天皇の沙汰である。ということで乃木軍司令部をなだめようとし、山県が参内さんだい
して、そのような沙汰をもらって来た。天皇の 「政治」 または 「軍事」 というものは、そういうものであった。 だから大迫尚敏は明治帝に愛されたというのも、そこには政治性はない。 明治帝は、大坪流の馬術の達人であった。大迫尚敏はあいまいな馬術しか知らなかったから、帝は、 「大迫、教えてやる」 と言って、彼の近衛連隊長時代、帝からその秘術をことごとく教わった。 |