参謀長レイス大佐はさらに言おうとしたとき、要塞司令官スミルノフ中将は、さえぎった。 「ヴィクトル・アレクサンドロウィッチ」 と、レイスに向かって丁寧に言った。 「君はいったい何を言おうとしているのかね。まさか降伏しようと言いかけているのではあるまいな」 スミルノフ中将は、ステッセルとその側近の雰囲気の中で降伏説が出ているらしいという風聞を耳にしていたのである。 レイスは狼狽した。 彼のとって計算外であった。彼が今から展開しようとする修辞学は、降伏という言葉を使わずしてしかもそれをほのめかしつつ、さらには修辞上激越な表現を使って一座の空気を思う壺へ持ってゆこうとしたのである。ところが話の腰を折られ、しかもスミルノフ中将の口から、 「降伏」 というどぎつい言葉が出てしまったため、ついにレイスは本音
を言わざるを得なくなった。 「もはや戦闘に耐え得る兵は一万余にすぎません。それらの兵も野菜不足による壊血病のため気力および運動能力が十分ではありません」 と言ったが、これは事実であった。食糧はまだ十分保有されていたが籠城病ともいうべきビタミンCの欠乏のため、貧血や脛骨の痛みを訴える兵が多く、重症者は入院しているのである。 しかしながら一面、砲弾八万五千、小銃弾二百五十万発という豊富な弾薬を持っている以上、この段階で降伏するということはどうであろう。 が、レイスはこうなれば自分の言うことを論理化することに懸命になった。 「すでに二竜山堡塁は陥落しました。この陥落は同正面の第三小地区全域の破綻はたん
をまねくことになりましょう。── さらには」 と、レイスは言う。 「第二線において防御ということは口頭ではそうは言えますが、実際の地形は独立せる丘であり、歩兵の抵抗を助ける地形ではありません。さらには日本軍の一部が旅順市内に突入すればいかが相成ります。悽惨な市街戦が起こり、多数の傷病兵もことごとく敵刃にゆだねることになりはしますまいか」 とレイスは言うが、このとはステッセルがつねに憂慮しているところであった。彼は開戦の時妻を本国へ帰さずにいた。また他の将軍たちも家族を旅順に残している者が多い。ステッセルの配慮はそういう非軍事的な要素も多くふくんでいた。レイスはそれを代弁しているのである。 「それよりも」 と、レイスは言った。 「第二線がまだ陥ぬというこの状態のなかで開城談判をはじめればどうでありましょう。当方がなお戦力を残している以上、談判において有利な条件をかち得るにちがいありません」
「ばかな」 と、要塞司令官スミルノフ中将は言った。 「なるほど守備兵は半数に減じ、備砲もまた半減している。食糧もあるいはあと一ヶ月を残すのみになっているかも知れないが、こういうことは籠城戦のごく普通の状態であって、べつだん深刻な状態ではない。この時期に開城論をもちだすなどとは愚劣きわまる」
|