ともあれ、 「二竜山堡塁の陥落」 という重大事態の翌二十九日にステッセルは作戦会議を開き、 「極力第一線ヲマモリ、ヤムヲエザル状況ニ立チ至ラバ第二線ニ退却シ、ココニオイテ最後ノ抵抗ヲナス」 という今後の方針を決めたが、ところが翌三十日、旅順要塞の東方の重鎮をなす松樹山堡塁に対する日本軍の攻撃は猛烈をきわめた。 松樹山堡塁というのは旅順の大堡塁群のうちで最大というものではなかったが、堡塁の背面高地には松樹山第一砲台から同第四砲台までしたがえ、さらに他の砲台からの側防もあって、その威力はすさまじいものがあった。 担当は、第一師団
(東京) である。 この時期、かつては絶望的な状態にあった日本軍はもはや勝ちに乗ずる勢いが全軍にみなぎり、各師団が競進の状態で逸
っていた。たとえばすでに第十一師団 (善通寺) が東鶏冠山北堡塁をおとし、第九師団 (金沢)
は二竜山をおとした。しかし第一師団の松樹山堡塁の攻略は遅れている。 「もし陥ちねばみずから突撃指揮をとる」 と、師団長松村務本が、幕僚を率いて松樹山のふもとまで進出していた。勢いというものは人間に勇気以外の顕揚心をも昂揚させるのであろう。二〇三高地陥落以前においては、師団長がこれほどの前線まで出てくるためしはなかった。 攻撃法は他の堡塁の場合と同様、歩兵の突撃路を開くために先ず工兵が進出して堡塁にとってサザエの殻ともいうべき胸牆を大爆破することからはじめる。大爆破の設計は、工兵第一大隊の長である近野鳩三中佐が担当し、工兵を援護しつつ大爆破とともに堡塁へ飛び込む歩兵部隊は、中村正雄少将が率いた。 この戦闘に参加したのは第一師団のすべてではなく、歩、工、砲ともで三千二百である。これに対し、松樹山堡塁を守るロシア兵は二百八で、スプレドフという大尉が指揮していた。これを海軍に比較すればこんp堡塁は戦艦であり、日本軍の突撃部隊は、戦艦にむらがる漁船群のようなものであった。 ただ二〇三高地陥落以前の日本軍と違っているのは、砲兵力に余裕が出来、それを松樹山とその付近の側防機関をたたくことに集中出来るようになっていることだった。 三十一日午前八時から、日本軍のすさまじい砲撃が始まった。午前九時、各隊は所定の位置に進出して戦闘準備をととのえ、午前十時、先ず工兵の爆破班が飛び出して、敵の胸牆に仕掛けた爆薬をいっせいに点火した。その爆発のものすごさは文字通り天地が晦冥かいめい
したほどであり、やがてすさまじい土砂が雨のように降り落ちてきた黒煙が去ってから、日本兵が顔をあげると、前面の山のかたちがまったく変化していた。そのあと歩兵が突入し、相互に機関銃を交換し、手投げ爆弾を投げあい、さらに白刃格闘に移った。 この猛攻に耐えかねてフォーク少将は守備兵の退却を命じたが、ゴルバトフスキー少将は逆に戦闘の継続を命じ、手もとの予備隊を派遣したりして、ロシア側の命令指揮が大混乱を呈した。要するに十二月三十一日、松樹山堡塁は陥ちた。 |