ステッセルが降伏を決意したのは、公議によってではない。 彼一己の決断により出た。しかもそれについての手続きの執行も、なにやら自家本位
なにおいがある。のち、ペテルベルグにおける軍法会議において問題になったひとつはこの点にあるようであった。なるほどステッセルは旅順におけるロシア皇帝の代理者としてあらゆる専断権を持っているとはいえ、しかしその執行には当然、慣習上の
── たとえば幕僚や師団長以上の合意を得るといったような ── 手続きをしておいた方がいい。自分の私物を捨てるようにしてこの大要塞を捨てるというぐあいにはゆかないであろう。 が、前線にあっては将官たちが日本軍の集中砲火を浴びながら士卒を叱咤しった
して防戦につとめつつあり、ゴルバトフスキー少将のごときは素手になっても日本兵と格闘するような勢いで駈けまわっていた。 ロシア軍の防戦のすさまじさは、一月一日において望台を守っていたのは、わずか二百人前後であった。 この山頂二百人に対し、日本軍はざっと四千人が下から攻撃したのである。ロシア軍の他の砲台が日本兵に対して砲火を浴びせたが、日本側は攻城砲兵隊を主力として敵に十倍する砲火をもってそれにむくい、側防機関を次々に沈黙させた。それでもなお山頂の二百人は小銃、機関銃、手榴弾をもって戦い、しばしば日本軍を撃退した。この日の望台での戦闘は午前九時から始まったが、日本軍が組織的攻撃を開始したのは午後一時ごろからであった。午後三時、日本軍攻城砲兵はこの山頂のロシア兵に巨弾を集中したために、ロシア側の勢いは大いに衰え、ついに兵力が四十人になり、もはや防戦が不可能になり、山頂をさがって南方谷地へ退却したのである。退却といっても、この高地の裏側まで引き下がったに過ぎない。 日本軍は山頂を占拠したが、しかしこの方面を指揮するゴルバトフスキーはあきらめず、その付近の大小の砲台に命じ、望台山頂の日本軍に対し、山頂が低くなるほど砲撃させた。 そいうい激闘がつづいている時に、後方のステッセルは降伏を決断したのである。 ──
望台が日本軍に占領されたためにステッセルは降伏を決意した。 と、のちに言われた事があったが、しかし日本軍が望台山頂に駈けあがったのは午後三時半であり、ステッセルが降伏のための軍使を派遣したのはそれよりも少なくとも一時間前であることを考えると、ステッセルは前線で彼我の攻防がたけなわである時期、降伏のための軍使を出発させたことになる。 ステッセルはこの重大な軍使の役目に、まだ少年のように若い見習士官をあてた。マルチェンコという青年であった。ステッセルの書状を運ぶだけの仕事であるとはいえ、ちゃんとした仕官にそれを命じなかったというのは、どういうことであろう。マルチェンコは仕官のはしくれとはいえ、ステッセルの司令部にあっては高級給仕のような立場にある。彼ならばステッセルに抗弁する気づかいもないし、それに、防戦中の味方の中を通り抜けて行っても、たれも怪しむことはあるまい。そういう配慮によるものかもしれなかった。
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