ついでながら重複をおそれず、ステッセルの軍使派遣前後の次第に触れる。 彼が見習士官マルチェンコを旅順から出発させたのは、望台付近がなお激戦中の一月一日午後二時半ごろであった。 ──
もはや降伏すべきである。 と決意し、実行に着手したのはそれよりも早く、この日の朝であった。前線ではゴルバトフスキー少将が各陣地を駈けまわって死守を命じていたそのたけなわの時である。 要するにステッセルはこの日の朝、日本軍が望台への攻撃を開始した時、降伏を決断した。 ステッセルにとっては、ある意味では予定のようなものであった。
「第二線で徹底抗戦」 というよりも、 ── 日本軍が第二線攻撃にとりかかれば、それをしお
に降伏しよう。 と、かねて期していたように思える。 彼はこの朝、降伏文書を起草する前に、海岸防御司令官ロシチンスキー少将を呼び、 「もし必要とあらばいつでも駆逐艦を芝罘チーフー
に派遣できるよう準備しておくように」 と、命じた。日本軍の砲撃のため港内の艦隊は全滅したとはいえ、 「スターツヌイ」 ほか数隻の駆逐艦だけは損傷が軽微で、山東半島北部の中立港である芝罘ぐらいまでなら航海できる。 さらに降伏については同腹のフォーク少将に対し、軍旗とか重要書類とかいったふうなものを一ヶ所に集めておくように命じた。ステッセルは駆逐艦スターツヌイをもってこれらを旅順から運び出すつもりであった。 午後二時半ごろ、フォーク少将から電話があり、 「残念ですが、望台防御の希望は消えつつあります。あと一時間ほどももたないでしょう。日本軍の勢いは猛烈で、もし望台を失えば、彼らはすぐさま第三防御線への攻撃をはじめましょう。この第三防御線で最後の抵抗をするというのは、机上のプランにすぎません」 と、フォークは例の作戦会議で決まったことを簡単にくつがえしてしまった。 ステッセルは即座にそのフォークの言葉に同意した。その直後、かたわらにいた参謀長レイス大佐に、日本軍へ申し送る文書の起草を命じたのである。 文書は、英文で書かれた。ロシア人にとっての世界語はフランス語であったが、日本人にとってのそれは英語であることを、ステッセルもレイスも知っていた。 それが出来上がると、固く封印し、マルチェンコ見習士官を呼び、日本軍の最前線に行ってこれを渡すように、と命じたのである。 マルチェンコは、司令部付の下士官と兵を数人連れて、新市街を出発した。 彼は新市外の西北角にある西太陽溝第一堡塁の山ぎわの道を右へ折れ、堡塁群の谷間を縫って北へ走る道を歩いた。風があり、寒気がつよく、靴の底に道の固さがひびいた。おそらく地下一メートル以上も凍っているであろう。 「どこへ行くんだ」 と、友軍から声がかかると、彼は下士官に、 「赤十字の交渉に行くのだ。病院が砲撃されて困る」 と、答えさせた。彼は砲声のとどろく中を三キロばかり歩き、ようやくロシア軍陣地の最先端を離れた。この時、彼は白旗をかかげた。 |