~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
始皇帝の帰還 (一)
しん始皇帝しこうてい、名はせい、彼が六国りっこくを征服して中央大陸をその絶対政権のもとに置いたのは、紀元前221年である。それまでこの大陸は、諸方に王国が割拠かっきょし、つまりは分裂している状態こそ常態であるとされてきた。統一こそ異常であったと言っていい。

「── あんな奴が」
皇帝か──と、その在世中、巡幸中の彼を路傍で見た者が思ったのは、彼によって滅ぼされた国々の遺民としての感情もあったであろう。しかし一方、彼が中国を統一するという馬鹿げた、いわば絵空事のようなことを現実にしてしまったことが、人々にかえっていかがわしさを感じさせる結果になった。第一、皇帝・・と言う言葉そのものが新語であり、彼自身が創作した。言葉そのものがまだ新しくて熟していないのに、実体である皇帝に対する尊敬心の習慣が根付いているはずはなかった。
彼以前、地上に君臨する者として、国々に王という者がいた。貴族もいた。ところが、彼はそれらの王制や貴族制を一挙に廃してしまった。以前は、人民は生まれながらに人民であり、さらには、生まれながらの王や貴族を地の氏神に似たものとして尊敬し、その天賦てんぷの地位を人民はうかがおうとはしなかった。それでもって、なんとか大地は治まっていた。ただ大飢饉だいききんがあると人民どもは群れをなし、食を求めて流浪るろうし、王や貴族をかえりみなかった。それだけのことであった。

始皇帝は、なんとなく統治し統治されているという過去のあいまいな制度の全てを一掃した。それに代わるに、中央集権という不思議な機構を持ち込み、大網のように大陸にひろげ、精密な官僚組織の網の目でもってすべての人民を包み込もうとした。包み込みの原理は、法であった。法をもって刑罰や徴収、労役などすべてが運営され、強制されるなどは、今までこの大陸の人間たちが経験しなかったものだった。もっとも、かつて辺境にあった彼の秦王国の人民だけはそれを経験してきた。要するに征服国である秦のやり方が、この大陸のすみずみに及ぼされた。
「王たちの時代は終わり、すべてが秦になった」
ということの煩瑣はんささは、未経験の中原ちゅうげんの人民どもには耐えがたい。法のうるささだけでなく、官僚的権力者をどう尊敬したらいいのか、過去に伝統がないだけにみなとまどった。
皇帝だけが、この地上におけるただ一人の権力者だということだけは人々に理解できた。皇帝一人が官僚組織を握り、それを手足のように使い、すべてを皇帝自身が裁決しているとおうことである。権力を世襲するのも皇帝家だけしか認められない。貴族というあいまいな中間階級が消滅した以上、皇帝一人が、じか・・に人民という海のようなものに対しているようなものであった。言いかえれば、一本だけのくぎに皇帝がぶらさがっているだけで、あとはすべて人民だけという風景になってしまっている。
(つまりは、皇帝を倒せば、倒した者が皇帝になれるということではないか)
という奇抜な、しかしあたりまえの、ともかくも前時代にはなかったというこtではふしぎな政治認識を多くの人民に植え付けてしまったことは、当のこの制度の創始者自身は気づかなかったことであるにちがいない。

この制度の創始者は、ひどく土木事業を好んだ。人民という人民が彼の宮殿の普請ふしんか、彼の生前墓の建設工事か、または辺境の匈奴きょうどを防ぐための長城の工事か、あるいは首都咸陽かんようから八方に通じている皇帝専用道路の工事かに駆り出されていたが、そういう土工の中に陳勝ちんしょうという者もいた。後彼が仲間の土工たちを煽って皇帝をたおすべく反乱に立ち上がった時、おびえる人民共を叱咤しったして、「王になるのも侯になるのもみな思いのままの世の中ではないか」(王侯将相いずくンゾしゆアランヤ)という有名な文句を吐いたが、これは厳密には彼だけの独創ではない。加害側の始皇帝も加わっている。始皇帝が作り上げた前例のない政治空間がなければ、陳勝がむち・・をあげ、大地をたたき、この名文句を吐いても、土工たちはどよめかなったであろう。
2019/11/04
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