~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
始皇帝の帰還 (三)
かつての秦王である政は、皇帝のなってから十年そこそこしか生きなかった。この短い間に、彼は様々な事をしなければならなかった。そのもっとも重要な事業の一つは、天下を巡幸して彼自身の顔を人民どもに見せてまわるということであった。この点、彼は、歴史的経験を経た後世の皇帝たちよりも、皇帝として不馴ふなれれであったということがいえるであろう。例えば後世の皇帝たちなら帝都の宮殿を荘厳そうごんにし、百官百姓を礼をもってしばり、皇帝がいかに尊貴なものであるかを示すだけでよかった。そのために礼教の学である儒教が作動した。しかし始皇帝は最初の皇帝であるために、自分を居ながらに荘厳にしてくれる儒教の使い道を知らず、逆に儒教を禁止し、儒書を焼き捨てさせたほか、儒者四百六十余人を生きながらにあなに埋めた。
ともかくも、彼は皇帝がいかに偉大であるかを示すのに、自分自身で普天のもと、率土そつど のはてまで巡幸して見せたまわらねばならなかった。
この巡幸は、しばしば行われた。巡幸することが彼にとって最大の政治事業のようであった。
つ8いには巡幸の途上で病死してしまうほどに熱心だった。巡幸には、華麗に武装した何十万という軍隊が、新帝国の皇帝色である黒の旌旗せいき を無数になびかせ、無数の金属製の兵器を にきらめかせ、この世の恐ろしさとこの世のおごそかさを最大限に演出して見せた。奥地はるか西方の隴西ろうせい へ行った。東の方は、黄河流域につらなる主要都市をめぐって山東半島の之罘山しふざん (芝罘チーフ )まで行ってそこからはじめて海を見、あるいは琅邪台ろうやだい を行き、内陸の彭城ほうじょう を通り、さらに、はるか南下して揚子江ようすこう のほとりに出て要衝ようしょう を巡り歩くというものであった。彼の政権そのものが動いてゆくために、扈従よこじゅう する文官の数もおびただしかった。彼自身は、つねに車輛しゃりょう に乗っていた。車輛は小さな宮殿のように装飾がほどこされていたが、どういう技術者が設計したものか、多くの窓を自然に開閉することによって車室の中の温度の寒暑を調整することが出来た。この車は、特別な名で呼ばれた。
轀輬車おんりょうしゃ
という。轀も輬も、この車の為に文字がつくられたのではあるまいか。
巡幸の行列が都邑とゆう に入ると、群衆が両脇に殺到した。群衆は、後世のように礼教で飼いならされていないために皇帝を拝跪はいきしておがむということをせず、ただ物見高くむらがるだけであった。こういう場合、始皇帝は彼らに顔を見せてやるために、わずかに轀輬車の窓を開けさせたりした。
「この地上で、はじめて大地を代表する皇帝というものが現れ出た、顔をありがたく拝んでおくがよい」
と、この男は、顔を見せてまわった。
「あの男が、皇帝を称するせい か」
と無頼の者などは、対等の意識で彼の横顔を見た。彼は自分の顔を情熱的に見せてまわったために、後に彼の政権を倒して皇帝の地位につくべく ち上がった連中のたいていは、それぞれの郷土やそれぞれの作業現場において彼の顔を っていた。彼こそいいつら の皮であった。その顔を識られた時、識った者が、「この男さえたおせばおれがこの男になれる」と思った。皇帝という存在が貴族制度や礼教思想でもってよろ われていなかったために、そういうあんちょく・・・・・ な思いを野望家たちに持たせた。後世の皇帝制から見れば信じ難いほどの心理的事情であったが、しかし「皇帝」の発明者である贏政えんせい (始皇帝の姓と名)にとって、後世の彼の同業者のように豊富な歴史的経験を持つことが出来ない。創始者としてのうかつ・・・ さはやむを得なかった。
たとえば後の反乱者たちの中で、はい劉邦りゅうほう の場合は、咸陽の都の街路でこの皇帝を目撃した。
この時劉邦は始皇帝の土木事業の労役に従事していた。ある日、たまたま地上最大の権力者が道路上をしずしずと移動して行くのを見、その壮観に打たれた。感動したのではなかった。劉邦は大きく息を吐いてから、大丈夫、まさかく ノ如クナルベキナリ──男はこうなきゃだめだ──とつぶやいたのである。劉邦は皇帝に対して無用に戦闘的な抵抗心は持たず、ただむやみに首を振ってうらやましがった。このあたりは、いかにも劉邦らしい。
2019/11/07
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