~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
始皇帝の帰還 (四)
一方、項羽こううは、華南の会稽かいけいで始皇帝の巡幸に出遭であった。彼は群集と共に見物した。華麗な轀輬車が近づくいや、
かれッテ代ルベキナリ」
と、大声で叫び、同行している叔父の項梁こうりょう狼狽ろうばいさせた。彼のこの叫びは『史記』に出ている。
由来トッテカワルというのは、日本語にまでなった。項羽にとっては本音であった。項羽の強烈な自負心から言えば、皇帝の車に乗って皇帝の衣服を着ている贏政というしわ・・深い男になんの力も価値も感じなかった。始皇帝はたまたま秦の王家に生まれ、王になった。劉邦のような土民ではなく、項羽のような浪人同然の境涯でもない。秦は中国大陸の西北角にあり、半農半牧の非漢民族が雑居している。これらを統御するには法律と刑罰とむちによる統制主義による以外になく、秦は早くからその方式を採用し、法家ほうかの国とされた。秦は中原に熟成しつつあったような人文には乏しかったが、そのかわり、西方の遠い道から伝わってきている鉄や銅、あるいは真鍮の冶金が上手で、地を深くうがつ農具も、するどい兵器も他の六国りつこく(せいえんかんちょう)にくらべてはるかに豊富であった。
右のように、秦が持つ統制主義と生産力と兵器の優越が、この国をして他の六国をしのがせ、秦王せいにいたり、やがて六国を滅ぼして、奇跡としか言いようのない大陸の統一をげさせた。政は運が良かっただけだ、という見方を、土工として江湖に流浪している六国の農民たちに植え付けた。元来、旧六国の遺民たちは秦を野蛮やばん国と見、漢民族の血液が薄いと見て軽侮していた。軽侮されてきたた国の王が皇帝になったところで、劉邦や項羽ならずとも神聖視しなかった。
始皇帝にも、そのことがわかっている。だからこそ人民どものきもをとりひしぐような巨大な建造物を各地で造営し、また行列を連ねて、皇帝としての自分の顔を見せて回る必要があった。しかし顔を見せてまわることは、かえって効果が逆になった。劉邦や項羽のような手合いの野望を刺激し、挑発してまえあるという奇妙なはめ・・になった。

巡幸には、始皇帝の別な願望もその目的に組み入れられていた。
人間を運命づけている老と死という自然の変化からまぬがれたいということだった。万能の皇帝ならばそのことは可能だと彼は考えていた。彼は人文の希薄きはくな西北の辺疆へんきょうの人だけに瑣末さまつな文化意識にわずらわされることがなく、かえって合理主義的な思考法をとることが出来たし、おなじ理由で、一種の科学主義者でもあった。この気分の中で、彼は方術を信じた。方術はこの当時にあっては科学と言うにひとしく、またその体得者である方士が、のちの科学を語るようにして神仙を語った。
始皇帝は帰らに不老不死の霊薬を探すことを命じ、これがために万金を散じた。散じつづけた。
「良い薬をつくれ」
と、方士たちをあえきたてた。
彼らが調製するものをさかんに服用した。どうやら水銀のようなものまでんでいた形跡があった。おそらく内臓がぼろぼろになるまでその影響がまりに溜まっていたにちがいない。
方士の中では、とくに盧生ろせいという者を信じていた。盧生は、「天上で神仙とつきあっている」という評判があった。
「盧生、にせ方士の多い中で、その方だけを信じている。神仙を連れて来い」
と、彼は常に言い、かつ一方で、盧生がなまけているのではないかと思い、叱りもした。
「神仙はかならず陛下のもとに参ります」
と、そのつで盧生はたのもしく返答した。
その時こそ神仙が陛下に不死の薬を献ずるでありましょう、ともしばしば盧生は約束した。しかし一向に神仙が始皇帝の部屋に舞い込んで来なかった。盧生は窮してしまい、それは陛下の生活のありかたがよくないからでございます、と開き直った。神仙は余人を嫌う。陛下の部屋に舞い降りようにもたえず家来どもがいて舞い降りられないのでございます、という意味の理屈を整然たる理論と実証をもって述べた。合理主義者である始皇帝はもっともであると思った。
2019/11/08
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