~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
始皇帝の帰還 (六)
始皇帝が最後の巡幸に出たのは、陰暦十月の寒い冬である。
首都の咸陽かんようは人夫で雑踏していた。彼は阿房宮あぼうきゅうという仮称のついたとうほうもない大宮殿を渭水いすいの南(咸陽の南東)に建造中であった。前殿の一棟だけで東西八百メートル、南北百五十メートル、その屋根の下に一万人を収容するに足るというもので、この大陸に人間がみついて以来の最大の建造物というだけでなく、その壮麗さにおいても過去の建築という概念では捉え難いほどのものであった。妊婦達はその造営のために大陸の隅々から狩り出されてきた農民であったが、この時期、彼らとは別個の大集団が咸陽の東方の驪山りざんのふもとで工事に従事していた。不老不死を目指しているはずの彼にとっては矛盾したことであったが、その巨大好みのままに陵墓がつくられつつあり、その工事はすでに八分どおりまですすんでいた。彼の大旅行は、それらのわずらわしさからのがれたいということもあったのであろう。
まず水の美しい会稽へ行った後、北上して揚子江を渡り、そのあとめずらしく海岸沿いに北へと進んだ。山東半島の海浜である琅邪ろうやへ行き、平原津へいげんしんまで来たとき、やまいを得た。いそぎ咸陽へ帰るべきだったが、彼はまだこの病が死によって終了するとは思っていなかった。強気にもさらに北中国に入った。済水せいすいを渉り、沙丘さきゅう(河北省平郷)という土地に入ったときに、病があつ くなった。すでに旅行中に年越し、春も過ぎ、七月の暑いさかりになっている。
(わしがかねて思っていたとおりになってきた)
と、ひそかに緊張したのは、随行している趙高であった。
このころは趙高は単なる宦官ではなかった。始皇帝が詔勅を発するときに必要な印璽いんじまで預かるという職を持っていた。彼はこの巡幸中、始皇帝の轀輬車おんりょうしゃ陪乗ばいじょうし、その病状はつぶさに見ていた。
(ひょっとすると、皇帝はこの砂丘で死ぬな)
と、思ったのである。死は、政変につながる。
死を予感することの嫌いな始皇帝は、あとを譲るべき皇太子を決めていなかった。彼には二十余人の男子がいた。
長男は扶蘇ふそという。人柄が温厚で学問もあり、物事をよく考えておよそ平衡へいこう を失うということのない性格で、悪評の高い父親と異なり、宮廷の評判もよく、その評判は江湖にまでいろまっていた。扶蘇の代になれば、秦帝国も安定するだろうといわれていたが、しかし趙高にとっては扶蘇が二世皇帝になることはおよそ望ましくなかた。
名将の蒙恬もうてんが、扶蘇を支持している。擁しているといってもいい。
蒙恬は、成り上がりの将軍ではない。蒙家は秦がまだ王国に過ぎなかった頃から代々将軍を出す家で、祖父の蒙驁もうごう将軍はとくに有名であったし、兄の蒙毅も力量のある男だった。蒙恬は秦帝国の樹立のために百戦し、帝国の成立後は三十万の大軍を率いてオルドスまで北上し、漢民族にとって歴史的な脅威である匈奴を撃破し、その南下を防ぐために万里ばんりの長城を築いた。長城の造営のために彼は辺境に近い(陝西せんせい綏徳すいとく県東)に駐屯し、ここに幕営を置き、秦をして外患から安泰ならしめている。
かつて妖言する者があり、「秦ヲほろぼスモノハ胡ナリ」と言った。このことは始皇帝の耳に入った。胡とはいうまでもなく草原の異民族のことで、匈奴もその総称のうちに含まれる。こういうこともあって、現実に胡の害を防ぎつつある蒙恬への始皇帝の信頼が篤かったばかりでなく、辺境の農民たちのうちに秦に心服しない者でも蒙恬の武徳には心から感謝している者が多かったし、この意味では秦の威信はむしろ蒙恬によって重いという面があった。
その蒙恬のもとに、公子扶蘇がいる。
このことには、事情があった。
始皇帝が有名な坑儒こうじゅを行ったのは、彼が咸陽を出発する前年である。抗(阬)してしまったのだが、この時ばかりは公子扶蘇が父皇帝をつよく諫めた。扶蘇はどちらかといえば父や李斯のような苛烈な法家主義の思想よりも儒家のおだやかさの方が隙であった。始皇帝は扶蘇から諫められて甚だしく自尊心を損なった。というより、扶蘇の思想が秦帝国の立国思想と合わないことを危険に思い、
「しばらく蒙恬の所へ行って、軍隊の監督をして来い」
と、咸陽の宮殿から辺境へ追い出してしまった。人々は扶蘇が皇太子になる見込みはこれでなくなったと見た。しかし皇帝にすればそこまで考えたわけではなく、帝国を維持することがいかに苛烈なものであるかということを辺境の軍隊の中に追いやることによって扶蘇に教えようとしたに違いない。扶蘇は蒙恬の勇敢さやその優しさが好きであった。なかば喜んで辺境へ去った。
始皇帝の他の子供たちは、さほどの者がいない。
末子の胡亥こがいが、二十歳になる。始皇帝はどういうわけかこの色白の才子肌の末子を溺愛できあい していた。もし始皇帝が胡亥を愛していなかったとすれば── 以下は戯れの想像だが──「秦ヲ滅すモノハ胡ナリ」という「胡」を胡亥のことではないかとほんの一瞬でも疑ったかも知れない。ともかくも長子の扶蘇が辺境へ行き、末子の胡亥が咸陽に残った。
2019/11/11
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