~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
始皇帝の帰還 (七)
趙高は、胡亥の家庭教師をもつとめてきた。趙高は宦官かんがんでありながら文字にあかるく、とくに秦の法律についてくわしかった。彼は胡亥にそれを教授し、その仲は緊密であった。趙高にすれば胡亥が二世皇帝になってくれれば秦帝国は自分の意のままだと思うようになった。そのことを含みつつ趙高は始皇帝に胡亥がいかに人柄がよく利発であるかということを常に耳に入れ、このたびの天下への巡狩じゅんしゅうについても胡亥を連れて行くことを始皇帝に献言し、その許可を得た。この暑中の沙丘においても、胡亥が旅行の中に居る。
(勿怪もつけの幸いというべきことだ)
趙高思った。扶蘇は遠い。胡亥は父皇帝の傍に居る。諸事、策謀を用いやすかった。
(李斯にとっても幸ではないか)
趙高は思うのである。もし扶蘇が次の皇帝になれば、蒙恬が李斯の位置にかわってこれを補佐するようになる。李斯は遠ざけられざるを得ないのだが、とくに扶蘇が儒教好きであるとすれば、危険はさらに大きい。熱狂的な法家である李斯はいままで儒家を弾圧すること甚だしく、その罪をもって新帝から処罰されるという危うさを孕んでいる。
(李斯を誘い込むのに、わけはない)
趙高は思った。

ある朝、暗いうちに始皇帝が轀輬車おんりょうしゃの寝台の上で息を引き取ってしまった。趙高ちょうこうはその瞬間まで介抱かいほうをし、やがて息が絶えた時、彼の新たな仕事のために鋭く背後を振り返った。そこに下僚の宦官が三人居る。寝台の背後で雑用をしていた。
「聞け」
趙高は、おそろしい顔をして言った。
「陛下は、亡くなられたのではない。この轀輬車の中で生きておられる。咸陽へ還幸されるまでは、生きておられるのだ」
もしそうでない・・・・・事実を口外すれば、不忠の者として殺す、九族まで殺す、よいか、よ言った。三人の宦官はいっせいにひざまずいた。彼らはもともと趙高の子分であるため、念を押されるまでもない。
あとは、李斯りしであった。
趙高は、宦官二人を使いにして、胡亥こがいと李斯を呼びにやった。やがて胡亥がやって来て、沈黙してしまっている始皇帝におごそかに謁した。つづいて李斯も車に登った。李斯は皇帝の死という現実の前に体をふるわせ、立っているのがやとというほどに動顚どうてんした。
「存じ上げなかった。丞相じょうしょうの職にありながら、陛下のおんいたつきはここまでのものであろうとは、存じ上げなかった」
と、ゆかの上にひたい・・・り付けて泣いた。始皇帝の病状を自分に知らせなかった趙高への怒りとうらみが篭っていた。出来れば、趙高を何らかの法に照らして処刑してしまいたかった。刑名家けいめいかの李斯にすれば趙高の首をはねるための法操作などは、ごく簡単なことであった。
が、趙高はあらたなとりでのかげにいた。胡亥に対しにわかに皇帝であるかのようにうやうやしくし、李斯の様子をそのかげからじっと見ている。

やがて趙高は、他の宦官たちを車外に去らせた。
残ったのは、三人だけである。
趙高は手を上げてあかりをつよくし、棚の上からきぬに書かれたものを靜に下ろして来て広げて見せた。李斯が見上げると、始皇帝の詔勅であった。胡亥も李斯も拝跪した。趙高が説明した。始皇帝が息を引き取る前、さすがに死のまぬがれぬことを察し、趙高をかたわらに呼び、詔勅を口述筆記させたと言うのである。詔勅は、後継者についてであった。辺境に居る長子扶蘇ふそに当てられている。
── 軍事は蒙恬もうてんに任せ、急ぎ咸陽に戻って朕の葬儀に参加せよ。
とある。扶蘇に即位せよとは明示されていないが、指名と同一効果のものといっていい。指名より始末に悪いのは、この詔勅どおりなら蒙恬が辺境の国軍を率い、扶蘇を守って咸陽へ帰ってくるかも知れないということである。当然、首都は蒙恬の強大な軍隊の管制下におかれる。
このことは、趙高にとってまずい。
「この詔勅を蒙恬将軍の駐営地へ送りたてまつりますのは、しばらく差し控えます」
趙高が宣告するように言った。李斯は老いた顔を上げて、ことさら不審の表情をしてみせた。
趙高は胡亥のそばを離れ、李斯に顔を近づけ、「お聞きあれ」と言った。もし陛下の崩御ほうぎょが人々に知れ渡ったならば秦帝国はこの沙丘において滅びます。前途に土匪どひ蜂起ほうきしてこの?簿ろぼをはばむばかりか、自軍さえ冷静でいるかどうか、測りがたい。「宰相よ」と趙高は声をはげまして言った。
この詔勅を辺境に送るとなれば天下に崩御が明らかになってしまいます。それによって秦帝国が滅ぶことに加担されるか、それとも崩御を秘し、陛下がなお世にられますように擬装し、咸陽に至ってはじめて大喪を発し、それによって秦帝国の崩壊を防ぐことに力を尽くされるか、と問うた。
李斯は長い沈黙をつづけた。やがて決心したように一点頭して、趙高どののご意見に従いましょう、と言った。
2019/11/12
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