~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
始皇帝の帰還 (八)
やがて、始皇帝の死体は沙丘を出発した。
死体の巡幸ということは、以前にも以後にもない。黒色の旌旗せいきが地平をどよもすようにして動き、百官が轀輬車おんりょうしゃに前後して、その壮観さは従前どおりであった。たれも始皇帝が死体になってしまっているということを知らなかった。
轀輬車には、ひつぎの中におさまった始皇帝とともに趙高が乗っている。
朝の供御くご、夕べの供御も、柩の前面にすわっている趙高が受けるのである。この巡幸中、始皇帝は毎朝、李斯以下の百官を謁した。百官が車の前に来て堵列とれつするのだが、皇帝の姿はすだれ・・・の内側にあるために外からは見えない。この日から趙高がすだれの内側で謁した。趙高は文字どおり疑似皇帝になった。
(なんというばかばかしさだ)
最初の朝、李斯は、自分の肉をむしりとって投げつけたいような衝動にかられた。
その最初の朝が過ぎると、始皇帝・・・である趙高が胡亥を呼びつけた。他の者から見れば始皇帝はもはや雲隠れすることをやめたのかと思った。胡亥はきざはしをのぼって車の内部に入ると、中は薄い採光のために朱色の柱がおもおもしく沈んでいる。すでに死臭ししゅうがこもっていた。むらむらと立ち込める死臭の中で、趙高がすわっている。
「詔勅によって、長子の扶蘇様が、帝位につかれます」
趙高は揺れながら、小声で言った。四つの車輪が土を噛んで轣轆れきろくとした音をたてている。扶蘇が帝位につけば、無数の先例が示すように、他の有資格者だった皇子たちは殺される。とくに始皇帝から愛されて一時は帝位の後継者だという下馬評のあった胡亥はただでは済まない。反乱を予備的に防ぐという目的で、多くの事例が示すように殺されてしまう、それでもあなたはいいか、という意味のことを趙高は言った。若い胡亥は、趙高が何を言い出すのか見当もつかず、
「やむを得まい。先帝がそのように決められたのだ」
と言うと、趙高は決められたわけではありませぬ、と棚の上の詔勅を指さした。あの詔勅については胡亥様と李斯どのと私以外には天地のたれもが知りませぬ、ここで胡亥様のご決断こそ必要でありましょう、もし胡亥様さえそのおつもりになれば咸陽に戻った曉、帝位におきになることも夢ではございませぬ、と言った。
胡亥は、ふるえあがった。詔勅を偽作しようというのである。が、趙高は胡亥にあいまいさを許さず、これを追いつめて返事を迫った。胡亥はついにうなだれ、力なく「諾」と言った。
(胡亥さまが、承知した)
趙高は、拠りどころを得た。次は宰相の李斯である。李斯を車の中に呼び、二人きりになった。
李斯は秘計を打ち明けれれて、驚き、かついかった。が、怒りを懸命におさえ、
「趙高よ、あなたの考えはまちがっている。人臣として取るべき道ではないばかりか、国の亡びにtyながる」
と、言った。李斯は、すぐれた政治家ではあったが、諸悪を政治と言う場で平然と許容できるたちの男でなく、彼の学問にも施策にも彼なりの強い正義の念が貫いていて、趙高の仲間になれるような男ではなかった。
さらに彼の法意識が、それを許さない。臣というのは自由なものではない。臣とは、元来、奴隷というべきもので、自分のめしを与えてくれる主人の命令をいくのがその道である。主人が生きている時にはそれにしたがい、主人が死ねばその遺言さえ踏みにじるというのは、法の道理を真向まっこうからはずしている。
「そういう考えにくみすることは出来ない」
と、李斯は言った。
2019/11/12
Next