~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
始皇帝の帰還 (九)
趙高は、おどしにかかった。
「秦においては、丞相じょうしょうは君主一代のものです」
決して先代に使われた丞相が次の代にも使われることがない。扶蘇様が皇帝になれば蒙恬が丞相になり、あなたなどは悲惨な目に遭う事になるでしょう、代々の丞相はそれらが仕えていた主人が死んだ場合、例外なく罪目をかぞえられ、九族まで誅殺ちょうさつされました、ご自分だけその例外をつくれる自信がありますか、と言った。
「例外をつくれる」
と、李斯は言いたかった。秦王のせいに六国を討滅する策を与え続けたのは自分であり、また政がこの大陸の主になった時、これを統御する政策のすべてを立案したのも自分である、という自負があった。
が、李斯は本来政治家というより立案者であるという面がちよい、始皇帝のような強烈な自我を持った独裁者に仕えてこそその案は採用され、李斯も光るのだが、単独の政治家として生きてゆくには、迫力に不足していた。
趙高もそれをよく知っている。
「蒙恬は武功の人で、あなたのような文功の人ではありませんが、それは置かれた場所によるもので、蒙恬が宰相になってもあなたぐらいのことはやれるでしょう。しかしあなたが三軍を率いて蒙恬にような武功をてられるということは考えられません。たとえば軍略でもって遠い未来を見通す力においてはあなたは蒙恬よりもまさっておりますか。また天下人民の信望においてどちらがまさっているとお思いです。さらに重要な事は、扶蘇様が皇帝になられた場合、どちらがご縁が濃いとお思いですか」
李斯はかぶりを振って、すべて蒙恬がすぐれている、と言い、
「しかしなぜそういうことを聞くのか」
と、不快そうに反問した。
「丞相が、ご自分を評価しておられるのかを知りたかったのです。蒙恬のほがすぐれているということは、次代の丞相は蒙恬であるとおうことでしょう。つまりは丞相は抹殺されてしまうことであり、それをみずからお認めになったのも同然です。しかしのがれる道はあります」
胡亥を皇帝にすることだ、趙高は言った。さいわい先帝の御遺書はここにある。先帝の印璽いんじも私があずかっている。胡亥を帝位につけるという詔勅は今でもこれを作成することが出来る。・・・・
「もっとも丞相であるあなたさえ承知すればのことですが」
幸い、この秘密は三人以外、天神地祇てんじんちぎもこれを知らない、胡亥はもう承知している、あなたさえその気におなりになればいいのです、としつこく迫った。李斯は、もだえるように趙高の誘いに抗した。趙高は多弁で、あらゆる論理をつかい、蜘蛛くもが糸で小虫を搦め取るようにして李斯に迫った。
李斯はついに承知した。しかしこの後、天智を仰いで歎き、つまらぬ世に生れ、つまらぬ男にかかわりあい、恥ずべき仲間に入れられてしまった、と地に伏し、髪をかきむしるようにして呻いた。

趙高はこの謀議の座長格になった。
始皇帝のむくろが横たわっている轀輬車おんりょうしゃの車内が、謀議の場所である。趙高はまず胡亥をもって皇太子とするという始皇帝のいしょう遺詔を偽作し、胡亥と李斯に見せた。両人はここまで乗った以上は、それについてどうこう言う理由がない。両人ともだまってうなずき、承諾した。
次いで、扶蘇と蒙恬を殺してしまわねばならない。
「えつ」
胡亥は、肝をつぶしたような顔をした。
「兄上と蒙恬を殺すのか」
「当然でございます。皇帝になるべき第一公子と、秦朝第一等の名将とを殺してしまわねば、あなたさまが帝位におつきになっても、扶蘇様が非を鳴らし、その声望をもって天下の人心をおさめ、また蒙恬が大軍を率いて咸陽かんようを囲んで、せっかくのこの苦心のくわだても水のあわになってしまいます」
「どうしても兄上を殺さねばならぬものか」
「遺詔を偽作するということをあなた様も李斯様も承知なさいました。承知なさったときに、すでに扶蘇様も蒙恬も殺すということは、当然、織り込み済みでございます」
「そういうものなのか」
胡亥はまだ煮え切らない。趙高は声を励まし、自分たちは権力を相手から奪い取ろうとしているのでございます。ここは切所せっしょでござる。尋常の手段では参りませぬ、と言った。
このようにして、辺境の扶蘇と蒙恬へつかわす詔勅が出来上がった。
「蒙恬と共に自害せよ」
という言葉が、末尾に書かれた。まず、「朕は」と始皇帝は言う。巡幸の途中にある。名山をたずね、諸神をまつり、長寿を祈っている。そのほうは蒙恬とともに大軍を率い、匈奴きょうどと戦っているが、いまなお少しの功績もない。それのみか朕の政治の批判ばかりしをしている。その不幸の罪をつぐなうため、この剣をもって将軍蒙恬ともども自害せよ、というものであった。
「いかがなものでござる」
趙高は草稿を李斯に見せた。
「結構です」
李斯もやむなく承知した。
2019/11/12
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