~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
始皇帝の帰還 (十)
辺境の幕営の中で勅命に接した扶蘇は、いさぎよくその剣でのどを突き、自害してしまった。
その前に、蒙恬が制止した。どうも唐突な命令で理解できない、なにか陰謀でもたくらまれているのではないか、と言い、いちど、助命を嘆願してみましょう、そうすれば事情もわかってくると思います、と言ったが、扶蘇は、それでは父の命に対して疑うことになり、二重の不幸になる、と言ってきかず、死を急いだ。
蒙恬は、自害をこばんだ。このため使者団が彼らを捕え、咸陽へ護送して獄につないだ。数ヶ月後に蒙恬も獄中で毒を仰いで死ぬことになる。

轀輬車は、暑気に中を咸陽に向かっている。
暑いために、始皇帝の死体の腐敗は早かった。臭気が車の中に満ちた。地上のただ一人の絶対者も死ねば死臭を発するだけというのが、んあいか滑稽なようでもあり、哀れでもあった。彼は趙高にとっては死体であり続けねばならなかった。
(もう少しの我慢だ)
車の中で、趙高は思った。始皇帝の死体に言いきかせているのではなく、趙高が趙高自身にいいきかせている。擬似皇帝である趙高は気を失いそうになるほどの匂いの中で、呼吸していた。彼は夜だけは趙高に戻って宿舎に泊まることにした。車から降りると、まわりから新鮮な空気が殺到した。生き返る思いであった。夜間は、腹心の宦官かんがんに交代させて車内にせさせた。この臭気の中ではとても眠ることが出来ず、一夜で宦官は死体寸前の衰えをみせて車から降りてきた。昼は、趙高が車内に居る。欲に取りかれでもしない限り、こういう我慢は出来るものではなかった。
ただおそれるのは、外部にこの臭気がれることであった。このため、趙高は数日目から馬車を並行へいこうさせて走らせている。秦の始皇帝が開通させた軍用道路の道はすべて二車線で、二車線であることが、始皇帝の生前よりも死んで役に立ったことになる。並行して走らせている馬車には、鮑魚ほうぎょを一石(三十キロ)も積ませていた。鮑魚というのは干物にした魚のことで、臭気がはなはだしい。「陛下がそうせよと仰せられた」と供奉ぐぶの連中にはふれておいたが、供奉のものから見れば、始皇帝がなぜそんな物好きなことをするのかわからない。そのことについては趙高は説明しなかった。このためたれもが不審に感じ、何事かが起こっているという疑念を持った者が少なからずいたにちがいない。
辺境から使者が帰ってきて、扶蘇が自殺し、蒙恬が捕えられて咸陽へ檻送かんそうされた旨、彼らに報告した。
安堵あんどした」
胡亥は、さすがに事の成否が気がかりだったらしく、はしゃぐようにして言った。李斯も自分を害するであろう勢力がこの世から消滅したことを喜んだ。
巡幸の列は、速度をはやめて西へ西へと進んだ。陝西せんせいの北部に入ると、咸陽へますぐに南下している新道路が出来ている。蒙恬が開鑿かいさく したもので、匈奴が出没するオルドス地帯から南下し、上郡を経て咸陽に達するものであった。北辺に異変が起きるとすぐさま九軍を咸陽から送れるようにしたもので、この当時「直道」と呼ばれた。もっとも直道が開通してから、蒙恬の武威もあって匈奴が息をひそめ、なだ軍隊輸送を必要とするような事態が起ってはいない。この直道は、死体の始皇帝を咸陽へ急がしている趙高の為に役に立った。悪事というのは積み重ねられると、どこか空疎で滑稽な色を帯びてくる。
2019/11/14
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