~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
秦 の 章 邯 将 軍 (一)
しん軍の総帥の章邯しょうかんは、士心を得ていた。
「章邯将軍がいる限り、必ず勝つ」
という信仰が、その諸将や士卒の間に出来ていた。章邯はとくに演技をして彼らの心をろうとしたのではなかったが、彼に従ってさえいれば必ず勝つということが、人々の心を団結させた。
戦いを経るにつれ、元来、太り気味だった章邯の体つきが、すじりあげたむちのようにしなやかになり、かつては丸かった容貌までが、頬肉がそげおち、あごがとがって、別人のように変わった。彼の容貌は、よく張った前額部が特徴的で、つちたたき込んだ鉄のように固そうだった。この前額部はつねにかしいでいて、なにかたえず考え込んでおり、すぐれた工人のように無駄口というものをいっさいたたかなかった。
章邯は、工人肌の男だった。たとえば自分の作品である戦争という勝負事に没頭しているだけで、後方の宮廷に対し、政治感覚を働かせるという配慮をまったくしなかった。
咸陽では、かつて少府として九卿の末席にあり、いわば政治そのものの中にいたはずななおに、野戦に出るときっすいの職人肌の将軍になってしまったのは、元来そういう気遣いが嫌いだったのかも知れない。
咸陽では、異常な政治状態がつづいている。宦官かんがん趙高ちょうこうがいっさいの政治に壟断ろうだんし、二世皇帝を独占し、このような無法な状態をただそうとした大臣や大夫たいふたちはほとんどしりぞけられるか、殺されるかした。章邯はそういう後方のことを考えまいとしていた。戦いを設計し、命をspan>けてそれを実行し、勝ち、勝った利を一つずつ積み重ね、反乱軍を丹念に潰してゆく以外に、秦帝国の安寧あんねいはない、というのが章邯の信念であった。

戦いの初期、章邯の連戦連勝は秦都咸陽を喜ばせていたことはたしかだった。
その時期、二世皇帝が戦況に多少の関心を持っていた証拠は、章邯をたすけよ、といって二人の参謀を送って来たことでもわかる。が、その後、勝ち戦が続くにつれ、秦帝国の政府軍である以上当然のことだと思ったのか、関心を示さなくなった。というよりも宦官の趙高が、
「繰り返して申しますように、ちんの字義は万物のきざしということでございます。きざし・・・は俗眼では見えざるものでございますから、しょうにおかせられても。竜が淵の底にひそみまするように禁中深くおわして、人々に玉体をお見せあそばすな」
と言い、やがて戦況も趙高が適当に捏造ねつぞうして言上することになった。前線の章邯に、二世皇帝胡亥こがいの反応がいっさい伝えられなくなった理由は、そのことによる。
戦いに初期に、二世皇帝が送ってよこした二人の参謀というのは、長史ちょう(三公の属官)であった司馬きん董翳とうえいである。
司馬欣は、咸陽あたりではその職名の長史というのを姓代わりに使われて、
「長史欣」
などと呼ばれていた。秦の官制では最高の官職を三公といい、次いで九卿という。三公の属官である長史にはふつう実務にたけた有能な人物が選ばれたが、欣はとりわけ目はし・・が利き、才気があった。但し属官としての才で、みずから首領になる器量ではない。章邯は、この欣を重宝した。
営中での長史欣の仕事は、主として情報の収集と選択であった。
章邯のいくさのやり方は、大半の精力を情報収集と分析にそそぐというもので、情報というのは敵の後方の政情や敵将の性格、政治的立場といったレベルから、戦場情報まであらゆるものをふくめる。
「長史欣が来てから、わしは決定だけをする。じつにありがたい」
と、章邯は喜んでいた。
しかし欣の多能さは、章邯の要求することだけにとどまらなくなった。味方である後方の咸陽の宮廷にも諜者ちょうじゃを置き、その情報も大量に集めはじめたのである。
「要らざることだ」
と、章邯は叱ったが、欣は、こんにち、将軍にとってはこの方が大切でございましょう、大屋根に登られたあと梯子はしごを外されてはどうにもなりますまい、と言った。気持ちが乱されるだけでなく、ときに戦意まで萎えてしまう。
「私には、聞かせてくれるな」
集めることは君の勝手だが、とその方は黙認した。
20200308
Next