~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
秦 の 章 邯 将 軍 (二)
もっとも、欣はたまりかねることがあった。帷幕 いばく の中で章邯と「食事を共にしているときなど、
「これを黙っていると、私のはらわたがえてしまいそうになります」
と、料理人に聞こえぬよう、小声でらしてしまうことがある。
馬と鹿の話であった。
咸陽の宮廷で趙高がやっていることというのは、恐怖人事である。法家ほうか主義をもって立国の基礎にしている秦は、官僚の日常行動まで法の細則で縛り上げて、罰則がじつに多い。趙高のように秦法をすべて覚えこんでいる男にとっては、官僚個々の行動をじっと見ているだけで、彼らを法にひっかけてしりぞけたり死刑にしたりすることは容易であった。趙高は、大小多くの官吏をこの方法で粛清してきたが、次第に人々はこつ・・がわかってきた。要するに、保身の基本は法に触れぬようにするということでなく、趙高に気に入られるということだった。気に入られさえすれば、法に触れようが触れまいが、趙高は決して厓を加えない。気に入られていなけれbくぁ、適用すしべき法がなくとも、皇帝の命令だとして殺してしまうのである。
趙高は、このようにして官僚を握りこんでしまい、秦の機構すべて自在にすることが出来た。
(しかし、官僚どもはどの程度、自分に服しているか)
ということが、趙高にとって絶えず不安だった。心服している人間など居るはずがないことを、元来ひがみっぽい去勢者である彼は、よくわかっていた。誰が宦官を尊敬するであろう。
趙高は人々から心服されることを望むほど人間を愛しておらず、信じてもいなかった。面從でよかった。徹底して恐怖心を与えて面從させつづければ心服を得るのと少しも変わらない。これが、彼の政治哲学であったが、しかしそれを実験してみたくなった。実験しておけば、いざという場合に役立つ。彼の最終のもくろみは宮廷でクーデタをおこし、二世皇帝を外して自分自身が皇帝になるとおうことであった。そのためには官僚を自分の側におさえこんでおかねばならない。
二世皇帝胡亥のある時期から、百官の拝謁ということはなくなっていた。皇帝のまわりにいるのは女性たちと、人にしてひとに非ずといわれた宦官たちだけである。ある時趙高はこれら宦官と女官を試しておかねばならないと思い、二世皇帝胡亥の前へ鹿を一頭い来させた。
「なんだ」
胡亥は、趙高の意図をはかりかねた。
「これは馬でございます」
と、趙高が二世皇帝に言上したときから、彼の実験が始まった。二世皇帝は苦笑して、趙高、何を言う、これは鹿ではないか、と言ったが、左右は沈黙している。なかには「しょうよ」と声をあげて、
「あれが馬であることがおわかりになりませぬか」
と、言い、趙高に向かってそっと微笑を送る者もいた。愚直な何人かは、不審な顔つきで、上のおおせのとおり、たしかに鹿でございます、と言った。この者たちは、あとで趙高によって、かやでも刈り取るように告発され、刑殺された。群臣の趙高に対する恐怖が極度に強くなったのはこの時からである。権力が人々の恐怖を食い物にして成長してゆくとき、生起おこる事がらというのは、みな似たような、いわば信じがたいほどのおとぎふう・・であることが多い。
長史欣が語りおえたとき、章邯は、
「なにか、説話はなしでも聞いているようだ」
小声で言った。おそらく今のはなし・・・は咸陽でおこっているなま・・な事実に相違なかろうが、それを信じてしまえば自分が今戦場でやっていることも情熱も、すべてむなしいものになってしまう。章邯は、自分の片脚を他の片脚ですくいあげてしまいかねないこの種の」情報を、自分自身の精神のために怖れた。
「欣よ、私には敵についての情報はなしのほうがいい」
と、章邯は言った。
「敵とは、章邯さまの敵でござるか」
欣は、秦人らしく韓非子かんぴしふうに、わかりきったことながら論理だけのための設問をした。敵──反乱軍──は、むろん私人章邯の私敵であろうはずがない。
「いや、敵とは秦帝国の敵だ」
「わかりました。しかし秦帝国の敵を、敵として苦闘しておられるのは章邯将軍お一人でありますまいか。咸陽では、各地の反乱騒ぎをなにほどにも思っていますまい」
(自分の私的な運命についてすこしは考えろ)
と、斤は言いたかったのである。
実際、咸陽の宮廷は前線につおては何も知らなかった。戦場からの報告は趙高ひとりがおさえて握りつぶし、二世皇帝には、各地の反乱軍は匪賊ひぞく程度のもので官軍によって平定されつつある、というふうに報告しつづけていた。二世皇帝が、もし函谷関かんこくかん以東の正確な戦況を知ったならば、いかに凡庸な皇帝でも電撃にうたれたように危機感を持ち、たちまちちょうに出、百官を招集し、彼らから現況を聞き、その日から親政をするであろう。となれば、情報を封じていた趙高の悪謀が白日のもとにさらされ、その日から彼は没落するにちがいない。趙高にすれば、天下はすべて無事でございます、と言いつづけることによって、胡亥を宮廷の奥にきざしとして閉じ込めておく必要があった。
従って、二世皇帝胡亥は、章邯の苦労などなにも知らない。
20200309
Next